第十二段 ~思いの多少~

 昔、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、ぬすびとなりければ、国の守にからめられにけり。
 女をば草むらのなかに置きて、逃げにけり。道来る人、「この野はぬすびとあなり」とて、火つけむとす。女わびて、
 武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。

 「人のむすめを盗みて」とある。「盗みて」は、「」の立場に立った言い方であって、「むすめ」の意志を無視したものではない。「むすめ」は同意していることを示している。盗むに至るまでの事情を連想させる刺激的な言葉である。そうせざるを得ないやむにやまれぬ事情があったのだと思わせる。「武蔵野へ率て」の「武蔵野」は、草深い野を連想させる。盗人であったので、国守に縛られてしまった。「からめられ」が具体的な映像を表している。
 以下は、その時の具体的な説明である。男は、初め逃げるために女を草むらの中において逃げてしまった。「道来る人」は、地元の者である。武蔵野の野焼きに来たのだろう。「あなり」は〈あるなり〉の撥音便の〈ん〉が無表記になっている。「なり」は伝聞で〈あるそうだ〉。それなら構うまいと、火を点けようとする。女は、それを耳にし、嘆いて歌を詠む。
 武蔵野は今日は焼かないでください。若草のように美しく恋しい夫もこもっています。私もこもっています。
と詠んだので、国守は、女のいる場所がわかり、女を捕らえ、次いで男も捕らえ、一緒に連れて行ってしまった。「な焼きそ」の〈な・・・そ〉は禁止を表す言い方。「つま」は夫のことも指す。
 恋は、男女の思いが同じというわけではない。この段では、女の思いが勝っていたようだ。男は一時の情熱に任せて、女を盗んだものの、国守から追われると、女をおいて逃げてしまう。男の行為は、浮気心によるものだったのだろう。置いておかれた女が不憫である。どんな思いでいたのだろう。それでも、隠れている武蔵野の草に火を点けられそうになると、歌を歌って男を守る。「若草のつま」に男への恋心が表れている。この後この二人はどうなってしまうのだろう。しかし、相手の思いがどうあれ、自分の気持ちに正直であることが恋の正しいあり方なのだろう。女に悔いは無いに違いない。

コメント

  1. すいわ より:

    女、憐れですね。咎びとに恋したのが罪なのか、、恋(孤悲)は愛(相)とは異なるもの。男は刑に服し、例えば業火に焼かれる時、最期に女の顔を思い浮かべることはないでしょう。女は親元に連れ戻されるのでしょうか、焼かれたのは野ではなく、女の心。灰になり、一度真っさらになり、新たな恋の芽生える準備が出来たのだと思えば少しは救われるでしょうか。でも、まぁ、、彼の人が好きと言いながら、好きな自分の事が一番好きだったりもします。女の人は忘れるように出来ています、たぶん。

    • 山川 信一 より:

      ジュディ・オング&阿木燿子の「魅せられて」の女性像みたいですね。
      古典が古いなんて誰が言ったのでしょう!

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