第七段 ~センチメンタルジャーニー~

 昔、男ありけり。京にありわびてあづまにいきけるに、伊勢、尾張のあはひの海づらをゆくに、浪のいと白くたつを見て、
 いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくもかへる浪かな
となむよめりける。

 ここまでの段から続けて読むと、「京にありわびてあづまにいきける」理由が恋に破れたための感傷からだと想像される。
ありわびて」はあることが辛くなって、居づらくなっての意。似た表現に〈住みわぶ〉がある。これと比べると、いっそう深刻な思いを表している。あること自体、つまり、生きていること自体がつらくなったと言うのだ。失恋の痛手を癒やすのは、時間と旅である。時間が経過するのを待っていられないならば、旅に出るしかない。自分が属していた日常を離れることで、別の自分を発見できるからだ。
 旅は想像力が生み出すものである。距離ではない。旅だと思えば、近くても旅にはなる。とは言え、できれば、物理的にできるだけ遠くに行った方が今の自分から離れることができる。ならば、どこまで行くかが恋の痛手の程度を示すことになる。男が「あづま」を目指しているのは、その程度を示している。よほど辛かったのだろう。
伊勢、尾張のあはひの海づら」は、伊勢湾の海のほとり。「あはひ」は間の意。「海づら」は、海辺、浜。ここまで来ると、ずいぶん遠くまで来たなあという思いに駆られたのだろう。「いとどしく過ぎゆく方」は、いよいよますます離れる所、つまり、京のこと。京が恋しくてならない。すると、寄せても帰ることができる波が羨ましく感じられると言うのだ。「うら」は〈浦〉を意識した表現。
 郷愁が恋の痛手を忘れさせてくれることもある。失恋した時、旅に出る理由である。

コメント

  1. すいわ より:

    「時を超え、地域を超えて人間の普遍の姿を表現するのが古典」と先生は仰られました。良い作品を手にする事で、正に現代の私たちは遥か昔への時間旅行まで手に入れたと言えるのでは⁉︎
    現代の小説をほとんど読んだことがありません。過去からの手紙を受け取り、託された私たち現代人は、未来の人に新たにどんな良い作品を残せるでしょう、残るのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      言葉はタイムマシーンだと言います。時空を超えて、心をつなぐものです。
      古典を読むことで、私たちは過去の人々とも共に生きることができます。
      そして、今を未来につなげる言葉も生み出さねばなりません。つまり、新たな古典を。
      チャレンジは続けましょう。

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