第百九段    油断大敵

 高名の木登りといひしをのこ、人をおきてて、高き木に登せて梢を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふ事もなくて、おるるときに軒長ばかりになりて、「あやまちすな。心しておりよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛びおるるともおりなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候。目くるめき、枝危ふきほどは、おのれが恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所になりて、必ず仕る事に候」といふ。あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。

おきてて:指図して。

「木登り名人と言った男が人を指図して、高い木に登らせて梢を切らせた時に、たいそう危なく見えた間は何も言わないで、下りる時に軒の高さぐらいになって、「しくじるな、注意して下りろ。」と言葉を掛けましたので、「これほどの高さになっては、飛び下りるとしても下りられるだろう。どうしてそう言うのだ。」と申しましたところ、「そのことでございます。目が回り、枝が細く危ない時は、自分が恐れますので、申しません。失敗は、たやすいところになって、必ずしでかすことでございます。」と言う。身分が卑しい者であるけれど、聖人の戒めに合致している。蹴鞠も難しいところを蹴り出した後に、たやすいと思うと、必ず落ちるとかいうことでございます。」

木登り名人という、今で言う植木職人だろうか、その者の注意の主旨が聖人の戒めに合致していると言う。何事も一芸に秀でていると、その境地には通じ合うことがあると言いたいのだろう。つまり、どんなことでも、道を究めることは尊いということか。そして、蹴鞠の例を付け加える。失敗は油断から生じる。このことは、あらゆる事に通じる。肝に銘じておくべきだ。こうも言いたいのだろう。
全体が「き」という助動詞で統一されているので、兼好が自分の経験として語っていることがわかる。卑近な話題を出し、高名の木登りとの会話によって親しみを持たせようとしている。主張に説得力を持たせるためだろう。一方、前段との話題の落差によって、自分にはこんな経験もあるのだと、自らの人間的な幅も示したいのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    どんな分野であれ経験値を積むという事は物事の勘所を掴んでいるという事なのでしょう。理の前に身分の違いという隔たりはない。難所を過ぎた後に声掛けする絶妙なタイミング、納得できます。
    聖人の戒めと並べて書いたのはわかるのですが、最後に蹴鞠の話を持ってきたのは何故なのか?俗な話の流れの中に、自分は雅な世界もわかっているとアピールしたかったのかと思いました。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。木登りから蹴鞠まで、広く目配りをしていることを示して、主張に説得力を持たせたかったのでしょう。
      どんな道にも一流もいれば三流もいます。道の優劣を競うのではなく、自らの道を究めたいですね。

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