第九十九段  時の権力の及ばぬこと

 堀川相国は、美男のたのしき人にて、そのこととなく過差を好み給ひけり。御子基俊卿を大理になして、庁務おこなはれけるに、庁屋の唐櫃見ぐるしとて、めでたく作り改めらるべきよし仰せられけるに、この唐櫃は、上古より伝はりて、その始めを知らず、数百年を経たり。累代の公物、古弊をもちて規模とす。たやすく改められがたきよし、故実の諸官申しければ、その事やみにけり。

相国:太政大臣のこと。
たのしき:裕福である。
過差:贅沢。華美。派手。
大理:検非違使庁の長官。
規模:手本。模範。

「堀川の太政大臣は、美男で裕福な人であって、万事に贅沢をお好みになった。御子の基俊卿を大理に任じて、基俊卿が庁の事務をなさった時に、庁舎の唐櫃が見苦しいと言って、立派に作り替えるべき旨を御命じなったところ、この唐櫃は、大昔から伝わって、その始めもわからず、数百年を経ている。代々伝わっている朝廷の器物は、古くて破損しているのをもって模範とする。軽々しく改めるのが難しいということを、故実に通じている諸々の役人たちが申し上げたので、そのことは中止になってしまった。」

堀川相国は、美男で裕福で派手好みな人だった。息子を検非違使の長官に任ずるなど、権力をほしいままに振るっていた。その目に庁舎の唐櫃が古く見苦しく映った。そこで、これを新しく作り替えろと命じた。しかし、その唐櫃は昔から代々伝わった物で、古くて壊れているところがいいのだと、故実に詳しい役人からたしなめられ、沙汰止みになった。
結局、このことで堀川相国は恥をかき、自分の思い通りにはならないことがあることを思い知らされた。この話を通して、兼好が言いたいのは、時の権力でさえ朝廷の伝統には逆らうことができないということである。このエピソードには、兼好の価値観がよく表れている。

コメント

  1. すいわ より:

    人に与えられた時間なんて万物に比べたらほんの僅かなもの、その僅かな間に手に入れたものなど、時の流れにあっという間に飲み込まれてしまう。だからこそ、流れに揺るがず伝えられた「伝統」の価値があるのでしょう。とはいえ、伝統もただ古いと言うのでなく、そこに革新があり、漆器のように何層にも塗り重ね続けられたからこその「伝統」なのでしょう。
    この段で印象的なのは時の権力者に物申した一役人がいた事、そしてその言い分が通った事です。「おはなし」だからでしょうけれど。

    • 山川 信一 より:

      兼好は、伝統は時間が創り上げた人間の英知の結晶だと考えているのでしょう。だから、伝統に対して一人の人間が考えたことなど、到底太刀打ちできないとも。
      ただし、中には意味の無い伝統もあります。たまたま思いつきでしたことが様式化されるケースです。とかく日本人は様式化が好きですから、何もかもが「伝統」になりがちです。
      しかし、「伝統」になってしまうと強い。時の権力者さえ容易に逆らえません。そんな「伝統」の持つ両面について考えさせられます。

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