第九十段  不行き届きな関係

 大納言法印の召し使ひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、「いづくへ行きつるぞ」と問ひしかば、「やすら殿のがりまかりて候」と言ふ。「そのやすら殿は、男か法師か」と又問はれて、袖かきあはせて、「いかが候ふらん。頭をば見候はず」と答へ申しき。などか頭ばかりの見えざりけん。

大納言法印:大納言自身か、あるいは、その子が出家して法印になった者。法印は僧位。
乙鶴丸:召し使っていた少年の名。
男:法師と対になっていることから、ここでは俗人の意。

「大納言法印が召し使っていた乙鶴丸が、やすら殿という者を知って、常に行き来していたが、ある時出かけて帰って来たのを、法印が「どこに行って来たのか。」と尋ねたところ、「やすら殿のもとに言ってきました。」と言う。「そのやすら殿は、俗人か法師か。」と重ねて聞かれて、袖をかき合わせ畏まって、「どうでございましょう。頭は見ません。」と答え申した。どうして頭だけが見えなかったのだろうか、そんなことがあり得るかね。」

大納言法印と乙鶴丸とやすら殿はどう関わっているのだろう。乙鶴丸は、大納言法印が可愛がっていた稚児だろう。当時、稚児はマスコット的な存在だったようだ。それがやすら殿と親しく交際しているので、大納言法印はその関係が気になったのだろう。当時は、同性愛が当たり前のこととして行われていたそうだ。大納言法印に同性愛的な嫉妬があったかも知れない。しかし、さすがに法印という立場上、メンツもあり、どういう関係かを露骨には聞けない。そこで、「男か法師か。」とだけ質問する。しかし、乙鶴丸はその態度から法印の気持ちを悟る。そこで畏まって誤魔化そうとする。ところが、とっさには上手い言葉が出てこない。苦し紛れに「頭は見ていない。」と答える。兼好はこの言葉に対してそんな馬鹿なことがあろうかと皮肉を言う。結局、兼好は、法印と乙鶴丸のこうしたくだらない関係を批判しているのである。仏道は堕落している。法印にしてこの有様なのだと。

コメント

  1. すいわ より:

    「などか頭ばかりの見えざりけん(見えないわけないよね?)」と言う事ですよね。同性愛などなんて由々しき事なのだろう、と。法印は相手が男か法師か(どちらにしても性別は男なのに)、と聞く。稚児は名を出しているにもかかわらず、その人がどう言う立場の人か知らないと言う。なかなかの鍔迫り合いに見えます。法印は「不道徳な事」として乙鶴丸を嗜めているというより、お抱えの稚児が他の男に夢中な事に嫉妬しているように見えます。それが法師であったなら、巷の人よりむしろ面白くないのでは?乙鶴丸は乙鶴丸で「いかが候ふらん。頭をば見候はず」と言って深い仲を匂わせて、思い人と切れるつもりはないのに法印に気を持たせてその庇護を手放す気もない強かさを感じます。兼好の今回のターゲットは最終的に「法印」なのでしょうね。欲まみれの坊主ども、と。恋心なんて年齢も立場も何も超越して本人ですらどうすることもできないもの、なのでしょうけれど。部外者は立ち入らないに限ります。

    • 山川 信一 より:

      私にはどうもこの事情が飲み込めなくて、誤読をしていたようです。法印が乙鶴丸に対して、嫉妬のような感情を懐いていたのは確かでしょう。当時は同性愛は普通に行われていました。
      だから、自分が召し抱えて可愛がっているのに、他の男と通じていることが許せなかった。「女か?」とは問わなかったことから、相手が自分以外の男であることが許せなかったことがわかります。
      問い詰められた乙鶴丸は、法印のその思いがわかったので、袖をかき合わせて畏まります。このままでは暇を出されるかも知れないと思い、誤魔化そうと「頭をば見候はず」と苦し紛れの応対をしました。
      それに対して、兼好は「などか頭ばかりの見えざりけん。」と言います。これは、疑問ではなく反語でしょう。(ここが誤読の要です。)乙鶴丸の言葉を批判して、「頭を見ない?」そんなバカなことが有るはずないじゃないかと言ったのです。
      すると、兼好が批判しているのは、法印と乙鶴丸のそういった情けない関係ということになります。翆和さんの「兼好の今回のターゲットは最終的に「法印」なのでしょうね。」に賛成します。

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