第八十五段   賢を学べ

 人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから正直の人、などかなからん。おのれすなほならねど、人の賢を見てうらやむは尋常(よのつね)なり。至りて愚かなる人は、たまたまた賢なる人を見て、是を憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽りかざりて名を立てんとす」とそしる。おのれが心に違へるによりて、この嘲りをなすにて知りぬ、この人は下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、かりにも賢を学ぶべからず。狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥のたぐひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを賢といふべし。

驥:一日千里を行く駿馬。
舜:古代中国の伝説上の聖天子。

「人の心はすなおでないので、嘘いつわりがないわけではない。しかし、自然のままに正直な人がどうしてないだろうか。自分がすなおでないけれど、人の賢さを羨むのは普通のことだ。ところが、きわめて愚かな人は、たまたま賢い人を見て、これを憎む。「大きな利を得たいために、少しの利を受けず、体裁を繕って名誉を得ようとする。」と非難する。自分の心と違っていることによって、この嘲りをすることで次のことが明らかになってしまう、この人は、そのひどく愚かな性質が変わらないに違いない。だから、心を偽って小利さえも辞退できない。狂人の真似だと言って大通りを走れば、それはそのまま狂人である。悪人の真似だと言って人を殺すなら、悪人である。駿馬のまねをするのは駿馬の同類、舜をまねるのは舜の仲間である。嘘でも賢人をまねをしようとするのを賢人と言うべきである。」

人には普通嘘いつわりがある。しかし、中にはそうでない「おのづから正直の人」もいる。自分が「賢なる人」でない場合、普通なら「賢なる人」に憧れ羨ましくなる。(「おのづから正直の人」と「賢なる人」は同意で使われている。)ところが、希にきわめて愚かな人は、「賢なる人」の行為を邪推して憎む。決して「賢なる人」から学ぶことがない。故に進歩向上も無い。だから、動機がどうあれ、何を学ぶかが重要なのである。仮に本心からでなくても、「悪人」を学べば「悪人」になり、「賢なる人」を学べば「賢なる人」になる。
観念よりも実践を重視した考えである。なるほど、行為は、観念や言葉より確かである。もちろん、動機や理由を無視していいわけではないけれど。

コメント

  1. すいわ より:

    何を選ぶか、どう選ぶか。昔の人も悩みながら進んでいたのですね。現代はどうでしょう。選択肢が増えた幸とは反比例して増えすぎた選択に判断を下す難しさから判断を他人の頭に頼るようになってはいないか?真似るの真似が、何を真似るかの判断すら放棄しているように思えなくもありません。

    • 山川 信一 より:

      「まねる」と「まなぶ」は、結局同じことです。「まねぶ」という言葉もあります。つまり、学ぶことは真似ることなのです。しかし、すいわさんがおっしゃるように、何を真似る=学ぶかの判断が重要になります。
      人は放っていても何かを真似=学びます。したがって、その人を取り巻く環境・文化・思想が前提になります。たとえば、資本主義が生み出す思想が、外部からの搾取の肯定であれば、人の心もそうなります。そういう風に生きることになります。あるいは、見て見ぬ振りであれば、自分では何も判断しない人間になります。環境・文化・思想を見直すべきですね。

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