第六十八段   大根の兵士

 筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなるもののありけるが、土大根を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。ある時、館の内に人もなかりける暇をはかりて、敵襲ひ来りて囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追ひかへしてけり。いと不思議に覚えて、「日比ここにものし給ふとも見ぬ人々のかく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らにさぶらふ」といひて失せにけり。深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ。

押領使:(あふりゃうし)地方にあって賊軍や暴徒などを討伐する役職。
追ひかへしてけり:「て」は、意志的完了の助動詞「つ」の連用形。
ものし:代動詞とでも言うべきもの。英語のdoに似ている。

「九州の筑紫に何とかの押領使というようなものがあった。その者が大根をあらゆることに効く素晴らしい薬だと言って、毎朝焼いて食ったことが、長年になった。ある時、館の中に人もいない隙を見計らって、敵が襲ってきて館を取り囲んで攻めたところ、館の中に兵士が二人出て来て、命を惜しまず戦って、敵を皆追い返してしまった。たいそう不思議に思われて、「普段、この屋敷においでになるとも見えないお二人がこのように戦をなさるのは、どういう方ですか。」と聞いたところ、「あなたが長年信頼して、毎朝召し上がった大根でございます。」と言って消えてしまった。深く信心を捧げたので、このような恩恵もあったのだろう。」

読み手にそんなことが有ったらいいなあと思わせるエピソードである。京から遠く離れた筑紫という場所がそのために効果的に働いている。それによって、兼好は信じることの御利益を説いている。言わば、信じることの勧めである。信じることこそ、権威主義には好都合である。権威主義は対象を理屈抜きに信じることだから。

コメント

  1. すいわ より:

    信心の大切さを説いているのでしょうけれど、滑稽ですね。
    「鰯の頭も信心から」の原型でしょうか、大根の精。身に近くないから、へぇ、そんな事もあるのだなぁと面白がりながら聞けるのでしょうね(真剣なのか?)。現代もあれが体にいい、これは何某に効き目があると朝のテレビ番組で紹介されると昼には店頭から消えてしまうと言う事、多々ありますけれど、、続きませんね。

    • 山川 信一 より:

      一般に昔から信心は良いことだと言われてきました。疑うことは良くないとも。これは今でも常識になっています。確かに信じることは強い。だから、「信じろ!疑うな!」と誰もが言います。
      兼好も対象によりけりだと言いつつ、こうした奇譚を時々出して、信心を薦めます。その理由を確かめたくなりますね。

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