第六十三段    儀式の本質

 後七日の阿闍梨、武者をあつむる事、いつとかや盗人にあひにけるより、宿直人とて、かくことごとしくなりにけり。一年の相は、この修中のありさまにこそ見ゆなれば、兵を用ゐん事、おだやかならぬことなり。

後七日:「後七日の後修法」。陰暦正月八日から七日間、京都の東寺の座主を導師として、宮中の真言院で行われた真言お秘法。天皇の健康や平和、豊作を祈念した。
阿闍梨:真言宗の僧官。修法の導師。
宿直人:宮中の夜警をする人。
見ゆなれば:「なれ」は、伝聞の助動詞「なり」の已然形。

「後七日の御修法の導師が武士を集めることは、いつだったか盗人に襲われたことにより、宿直人と言って、今日のように物々しくなってしまった。一年中の吉凶は、この修法の中の状態にこそ見られるそうなので、武士を修法に用いるようなことは、穏やかでないことである。」

御七日という儀式について次のように批判している。これは、新年の吉凶を占うめでたい行事なのだから、しめやかに心穏やかに行うべきである。だから、物々しく武士など参加させない方がいい。これでは、儀式の本来の趣旨に背くことになりかねない。このように偶発的な不祥事による改変が前例になって踏襲されることある。しかし、それで儀式の本質を見失ってはならない。
なるほど、これは現代にも通じる一理ある主張である。こうしたことが積み重なると、何のために行われているかわからなくなる。わからないまま、形だけが「そういうことになっている」と踏襲される。学校行事などその典型ではないか。本質に立ち返ち、見直すべきである。

コメント

  1. すいわ より:

    「そういうことになっている」というもの程、怪しいものはありません。誰のための何なのか。そうする事の意味を考えず形式に囚われる思考停止は怖いです。目的をさしおいて自分の都合を優先する導師、その道の権威だからと許されているのだとしたら、なんとも傲慢だし、それを踏襲するのは尚更合理的でない。「当たり前」が何故当たり前なのか、立ち止まって考える必要があるのは今も一緒ですね。

    • 山川 信一 より:

      御七日の御修法に武士を集めるのは、導師の権威付けになっていたのかも知れませんね。本来の趣旨とは違うことに利用される。現代でもよくあることです。

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