《歌合の歌・「春上」の最後の歌》

亭子院歌合の時よめる  伊勢

みるひともなきやまさとのさくらはなほかのちりなむのちそさかまし (68)

見る人も無き山里の桜花他の散りなむ後ぞ咲かまし

亭子院歌合:九一七年、宇多天皇が上皇となって、亭子院においでになって催された。
山里:普通なら人が住まないような山奥の村里。

「見る人もない山里の桜の花は、他の桜が散ってしまった後に咲いたらいいのに。」

山里は、人の訪れが希である。桜が咲いても、見に来てくれる人がほとんどいない。桜は空しく散るばかりである。だから、他の桜が散ってしまった後に咲けば、人が見に来るのになあと言う。では、作者はなぜこんなことを言うのだろう。
この詞書きは、読み手に歌合歌なのだという情報を与えている。歌合の歌は、優劣を競い勝つために作られている。ならば、この歌もそうである。勝つためのどういう工夫があるのか。
そこで、この歌は、競争を逆手にとったのである。「見る人もない山里の桜の花」のような、私のこの歌は、他の歌には到底叶いません。歌合が終わった後であれば、どうやら読んでもらえるでしょうが、と謙遜して見せたのである。しかし、これは勝つための逆転の発想である。
貫之は、「春上」の最後にこの歌を置いた。「他の散りなむ後」に咲く桜花のように。歌の内容にふさわしい位置である。

コメント

  1. すいわ より:

    他が散った後もその存在を示す、上皇となり一線を退いてもその元に人は惹きつけられきっと集いますよ、と桜に擬えて言ったのかと思いました。なるほど、最後に勝ち残るのは私よ、と。恐れ入りました。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、詞書きと「春上」の最後の歌という二重の条件を踏まえて解釈すべきです。
      そうすることで、貫之の思いに近づくことができます。

  2. らん より:

    伊勢さんのこの歌。
    読みが深いです。
    大トリで最後におくのにふさわしい歌ですね。納得です。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』は、幾重もの仕掛が凝らされています。宇多上皇と伊勢の関係をほのめかしているのか知れませんね。

タイトルとURLをコピーしました