《散るまで味わう》

題しらす よみ人しらす

をりとらはをしけにもあるかさくらはないさやとかりてちるまてはみむ (65)

折り取らば惜しげにもあるか桜花いざ宿借りて散るまでは見む

「もし折り取るならば、惜しいことであるなあ、桜花は。さあ、宿を借りて散るまでは見よう、桜花を。」

三句目の「桜花」が上下に働いている。すなわち、上の句では主語に、下の句では目的語になっている。これは(62)の「徒なりと名にこそ立てれ桜花年に希なる人も待ちけり」と似た構造になっている。しかし、(62)では「桜花」が上下に主語として働いている。そこに違いがある。ただし、どちらも、関心の中心に「桜花」があることを形として示している点では共通している。
この歌の内容は、前の(64)の歌への反論になっている。すなわち、「折るなんてことは止めましょう。散るまで腰を据えて見ていましょう。それが桜を味わうことですよ。」とでも言いたいのだ。つまり、散るまで見て味わうのが桜の正しい鑑賞なのだと言うのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    一瞬と一生と。一番綺麗な時にフォーカスを当てるのか、一連のドラマを見届けるか。桜との距離感、温度感が違いますね。

    • 山川 信一 より:

      一番綺麗な時しか認めないというのは、一面的で愛が足りないようにも思えます。
      桜の花は散って、花筏となっても美しいのですから。

  2. らん より:

    そうですね。前の歌は力ずくで奪われる一方的な強引な感じでした。
    そんなの嫌ですよね。
    私、桜吹雪もとても好きなのです。ビューンと風が吹いてきて花びらがヒラヒラ飛んでくるのがすごーく美しい。桜はずっと美しいです。

    • 山川 信一 より:

      この時代と今では、目の付け所が違うようです。散ったらもう桜じゃない。桜は咲いてこそのものだったのでしょうね。
      また、歌は悲しみを詠むのが主だったようです。それで、散ることを悲しむのです。ただ、桜吹雪の美しさには、貫之も目を止めていました。後でその歌が出来来ます。

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