第三十九段  人間は自然体でいい

 或人、法然上人に、「念仏の時、睡にをかされて行を怠り侍る事、いかがして、この障りをやめ侍らん」と申しければ、「目のさめたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。又、「疑ひながらも念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これも又尊し。

往生:(わうじゃう)念仏の功徳により、死後、阿弥陀如来のいる極楽浄土に生まれ変わること。

「ある人が法然上人に『念仏の時、睡魔に襲われて修行を怠りますこと、どうやってこの妨げをくい止めましょうか。』と申したところ、「目が覚めている間に念仏をしなさい。」とお答えになったのは、大変尊かった。また、『往生は、確かにできると信じる時には確かにできる、できるかどうか疑う時には疑わしい。』」ともおっしゃった。これも尊い。また、『往生できるかどうか疑いながらでも念仏すれば、往生する。』とおっしゃった。これもまた尊い。」

往生を願って、眠いのを我慢することはない。往生は、信じれば確実にできるし、疑えば不確実になる。しかし、疑うのは人の常。たとえ疑いながらでも、念仏さえすれば往生すると言う。法然上人は、人間は、無理をせず、自然体でいいと説く。
この法然上人の考え方は、老荘思想と繋がっていると言うのだ。現世のこだわりから来世の望みへと話題を発展させた。老荘思想から仏教思想へと多角的に思索していることを示している。

コメント

  1. すいわ より:

    この三十九段へ話を繋げるために三十八段の最後の方は考えが曖昧になってしまったのでしょうか?
    法然の「自然体であれ」という思想に感銘を受けているようだけれど、これは念仏限定という事?「万事は皆非なり。言ふにたらず願ふにたらず。」と前段で言い切っていることと矛盾が生じるように思ってしまいました。

    • 山川 信一 より:

      兼好はあちこちで矛盾したことを言っています。ここもそうですね。人間らしいと言えば人間らしい人物です。
      「万事は皆非なり。言ふにたらず願ふにたらず。」と思うのも事実ですが、法然上人を尊く思うの事実なのでしょう。
      辻褄を合わせようという思いは感じられません。
      前段との違いを強いて言えば、前段の欲は、意志的・積極的で、この段の願いは、受動的・消極的です。だから、後者は認められると考えるのでしょう。

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