《鶯鳴いてこその春だ》

寛平御時きさいの宮のうたあはせのうた  大江千里

うくひすのたによりいつるこゑなくははるくることをたれかしらまし (14)

鶯の谷より出づる声無くは春来ることを誰か知らまし

「鶯が谷より出できて鳴く声が無かったら、春が来たことを誰が知るだろうか。誰も知ることができない。」

次の歌(一五番)と対になっているように読める。春の訪れは、何よるのか、花によるのか、鶯によるのか。そういった問答があり、それに挑んでいるのだ。一一番の歌に趣が少し似ているが、この歌は、相手が暦では無く、人間である。
ここでは、谷から鶯が出てこなければ、春とは言えないと主張している。「なくは・・・まし」は、反実仮想を表し、主張に説得力を持たせている。読者に己の立場をはっきりさせろと求めているようでもある。

コメント

  1. すいわ より:

    人それぞれの「春」へのこだわり、春に対する思いを歌合わせで歌いあっている様子が思い浮かびます。「たによりいつるこゑ」、庭先でなく谷、まだまだ春は遠いようですね。

    • 山川 信一 より:

      鶯は冬の間は谷に籠もっていると考えられていました。鶯こそが春告げ鳥だというのでしょう。
      歌合から離れれば、既に鶯は鳴いていて、春を告げているのです。しかし、春らしさが全然感じられません。だから、鶯の声が無かったら、とても遙人は思えないという意味になります。
      しかし、詞書きに「歌合」とあるのですから、春問答と捉えた方がいいでしょう。

  2. すいわ より:

    その時ではなく、歌合の「春問答」なのですね。ゼミのようでその場に居合わせたら楽しそうです。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』の歌は、詞書きとセットになっています。しかし、独立した歌としても読めますね。

タイトルとURLをコピーしました