和歌への賛美

やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり

「こと、わざ」は、現象と行動を意味する。世界には、様々な現象があり、人はそれに応じて行動する。その結果、それに伴い心に思うことを言い出す。たとえば、花に咲く鶯、水に住む蛙の声を聞いて、生きているすべての者は歌を読まない訳がない。(「よまざりける」の「ける」は、事実として一つ一つ経験したわけではないけれど、そう確信しているという思いを表している。)力も入れず、天地を動かし、目に見えない鬼神を感動させ、男女の仲を和らげ、猛々しい武士の心を慰めるのは、歌なのだ。こう続けている。
これは和歌への賛美である。現代、歌と言えば、音楽が主になっている。しかし、古代では、まず言葉の技だったのだ。
我々は、論理だけで人を動かすことがいかに難しいかを経験的に知っている。人の心を動かすのは、「理」に訴えるよりも「情」に訴える方が効果的であるようだ。したがって、詩歌は人の心を動かすには最良の手段の一つとなる。中国に漢詩があるように、日本には和歌がある。貫之は、日本人にとって和歌こそ心を動かすのに最良の手段だと言っている。そこに和歌の存在意義を認めているのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    ほんの些細な心の振幅を具に写し取るのなら、やはり使い慣れた言語の方が良いですよね。特別な人だけの特別な入れ物では世界の「こと、わざ」を掬い取る事ができない。誰彼の隔てなく心に従って歌う、貫之の和歌賛美は心の解放宣言のようにも思えます。

    • 山川 信一 より:

      日本語への信頼と愛情も感じられますね。それが日本語という言語の表現探求へと貫之を向かわせたのでしょう。

  2. らん より:

    やまとうた、いいですね。
    日本語はやわらかくて、美しいです。
    人の心を動かすのは感動ですね。和歌にはそういう力がありますね。

    • 山川 信一 より:

      貫之は、漢詩を向こうに回して、日本語表現の可能性を追求しました。
      それを具体的に確かめていきましょう。

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