「『土佐日記』一月二十日」から

「ひとのこころ」が「人の一つの心」を意味していることは、「よろづ」との対句以外にも根拠を上げることが出来る。『土佐日記』の一月二十日の記述に次のようにある。

「青海原振り放け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」
とぞ詠めりける。かの国の人聞き知るまじく思ほえたれども、言の心を男文字に様を 書き出して、こゝの詞伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひの外になむ愛でける。唐土とこの国とは言、異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。

(「青海原を遠く眺めれば、日本の奈良の都の春日の山に出たのと同じ月が出ているなあ。」と詠んだのだった。あの国の人はこの歌の意味を理解することができないだろうと思われたけれど、言葉が表す思いを漢字で趣旨を書き出して、日本語を通訳する人に言い知らせたところ、思いを聞き得たのだろうか、たいそう思いの外感動してくれた。中国とこの国とは、言葉が異なるけれど、月の光は同じことであるようなので、人の心も同じことであるのだろうか。おそらくそうなのだろう。)

ここでも、貫之は、中国人と日本人とは、言語は異なるが人の心は同じだと言っている。
山崎正和氏は、『劇的なる日本人』の中で、仮名序を根拠にして西洋の詩が普遍性を表すのに対して、日本人の詩は特殊な個人の心を表したものだという論を展開している。しかし、仮名序はその根拠にならない。貫之は特殊な個人の心など想定していないからである。仮名序では、和歌とは、人なら誰しもが持っている共通の心(=普遍的な心)を様々に工夫して表現したものであると言っている。

コメント

  1. すいわ より:

    もともと分かち合う事が好きなはずの生き物ですよね、人間は。と言うよりも分かち合わなければ生き残れない弱い生き物。だから協調する為にも伝え合い、理解する努力を惜しまずにいられないはず。なのに様々な障壁を自分達で作ってしまって齟齬を生んでしまっている。
    どこの国の人であるとか、社会的地位とか、性別だとかの壁を一切合切取り払って剥き身の「私」の思うところ、「心」のありようを「自分」の言葉で表現し伝える、中でも短詩による表現は選び抜かれた数少ない言葉で読む者の共感を得る、、貫之の目指す表現は幾千万の薔薇の花びらから絞った一滴のエッセンスのようです。薔薇を知らなくてもその香りを芳しいと思ってしまうみたいに。

    • 山川 信一 より:

      「貫之の目指す表現は幾千万の薔薇の花びらから絞った一滴のエッセンス」という捉え方がいいですね。貫之は、空間と時間を超えた普遍を目指していますね。
      〈古いものはいい〉とばかりは言えませんが、彼の知性が生み出したものから学ぶことは沢山あるように思えます。

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