帰京の喜びを歌う

よるになして京にはいらむとおもへばいそぎしもせぬほどにつきいでぬ。かつらがはつきあかきにぞわたる。ひとびとのいはく「このかはあすかがはにあらねば、ふちせさらにかはらざりけり」といひてある人のよめるうた、
ひさかたのつきにおひたるかつらがはそこなるかげもかはらざりけり
またあるひとのいへる、
あまぐものはるかなりつるかつらがはそでをひてゝもわたりぬるかな
またあるひとよめりし、
かつらがはわがこゝろにもかよはねどおなじふかさはながるべらなり
みやこのうれしきあまりにうたもあまりぞおほかる。

問 ここの三つの歌を鑑賞しなさい。
①ひさかたのつきにおひたるかつらがはそこなるかげもかはらざりけり
②あまぐものはるかなりつるかつらがはそでをひてゝもわたりぬるかな
③かつらがはわがこゝろにもかよはねどおなじふかさはながるべらなり

夜に移動して京に入ろうと思うので急ぎもしないうちに月が出る。満月である。桂川を満月に照らされて渡る。人々が言うことには、「この川は、飛鳥川ではないので、淵も瀬も変わらなかったなあ。」と言ってある人が詠んだ歌、
「遠い彼方にある月に生えている桂、その名を持つ桂川、すぐそこの川底に映っている影も、この川と同様に昔と少しも変わっていないことだなあ。」以前と変わらぬ懐かしさを歌っている。時間的経過を意識した歌である。(①)
またある人が言った、
「空には、月ばかりでなく天雲も見える。その天雲のように遙か彼方にあった桂川、手の届きようもなかった桂川を今こうして帰京の喜びの涙で袖を濡らして渡っていることだなあ。」帰ってきた喜びを歌っている。空間的隔たりを意識した歌である。(②)
またある人が詠んでいた、
「桂川は私の心にも流れ込んでいる訳ではないけれど、私の心には同じ深さの桂川が流れているようだ。私がどれほど桂川を思っているのかが今こそわかった。」桂川との一体感により、思いの強さを詠んでいる。(③)
都に帰ってきたことが嬉しいあまりに歌も程度を越して多い。「あまり」の繰り返しは洒落になっている。

コメント

  1. すいわ より:

    「そでをひてても」、京に戻ってきた感激の涙、ですね。とめどなく溢れる涙同様、その感動の心が歌となって溢れ出す。気持ちの高まりが伝わってきます。地図で見てみたら京の碁盤の目は本当に目前、帰ってきたのですね。

    • 山川 信一 より:

      そうですね、袖を濡らすと言えば涙です。桂川を渡っていても、何も桂川の水に手を浸して、袖を濡らすこともありませんね。
      帰ってきた喜びの涙を流しながら桂川を渡るのですね。

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