舵取との確執

かくいひてながめつづくるあひだに、ゆくりなくかぜふきて、こげどもこげどもしりへしぞきにしぞきてほとほとしくうちはめつべし。かぢとりのいはく「このすみよしの明神はれいのかみぞかし。ほしきものぞおはすらむ」とはいまめくものか。さて「ぬさをたてまつたまへ」といふにしたがひてぬさたいまつる。かくたいまつれどももはらかぜやまで、いやふきにいやたちにかぜなみのあやふければかぢとりまたいはく「ぬさにはみこころのいかねばみふねもゆかぬなり。なほうれしとおもひたぶべきものたいまつりたべ」といふ。またいふにしたがひて「いかゞはせむ」とて「めもこそふたつあれ。ただひとつあるかがみをたいまつる」とてうみにうちはめつればいとくちをし。されば、うちつけにうみはかがみのごとなりぬれば、あるひとのよめるうた、
「ちはやぶるかみのこゝろのあるゝうみにかがみをいれてかつみつるかな」。
いたくすみのえのわすれぐさ、きしのひめまつなどいふかみにあらずかしめもうつらうつらかがみにかみのこころをみつれ。かぢとりのこころはかみのみこころなりけり

問1「(鏡を)うみにうちはめつればいとくちをし」と言うのは、なぜか説明しなさい。
問2「いたくすみのえのわすれぐさ、きしのひめまつなどいふかみにあらずかし。」とはどのような思いを表しているのか、「ちはやぶる」の歌を踏まえて説明しなさい。
問3「めもうつらうつらかがみにかみのこころをみつれ。かぢとりのこころはかみのみこころなりけり。」は、どのような思いを表しているのか、説明しなさい。

一日の天気の変化が激しく、強風が吹き、船が進まない。それどころか、船は危うく転覆しそうになる。その時に、舵取が言うことには「この住吉の明神は、例の金銭で願いを叶える神ですぞ。今欲しいものがお有りになるのだろう。」何とも当世風で現金な神であるなあ。そこで、「幣を差し上げなさい。」と言うのに従って幣を差し上げる。ところが、このように差し上げても少しも風が止まないで、ますます風浪が激しくなるので、舵取がまた言うには「幣では満足がいかないので、御船も進まないのだ。もっと嬉しいとお思いになる物を差し上げなさい。」と言う。「洒落を言っている場合か」と腹が立つけれど、船君がまた舵取の言うのに従って「仕方がない」と思って「目も二つあるけれど、ただ一つしかない鏡を差し上げる」と言って海に放り込んだので、とても悔しい。
当時、鏡はとても貴重品であった。大事な目でさえも二つあるのに、鏡はただ一つしか無い。そんなに貴重な物を、御利益があるかどうかもわからないのに、舵取如きの言葉に従うなんて実に残念だ。何しろ、舵取は天気も読めないヤツなのだ。(問1)
そうすると、急に海は浪が収まり鏡のように平らになったので、ある人が読んだ歌、
「荒々しい神の心ように荒れている海に鏡を入れてすぐに神の(欲深い)心を見てしまったことだなあ。」
住吉の神は、はなはだしく、住の江の忘草、岸の姫松などから受けるイメージの優しい神ではなかったよと、そのギャップに呆れている。(問2)
目にもはっきりと鏡によって神の心を見てしまったことよ。舵取の強欲な心こそが神の御心だったのだなあ。つまり、神の御心は、舵取と同じような強欲な心だったのだなあ。とは思うけれど、もしかすると舵取は、経験から天気が直ぐに回復することを知っていたのではないか。だから、それを利用して、自分の船での支配力を誇示するために、鏡を海に投げ入れさせたのではないか。だとすれば、舵取の心こそが神の心の正体だったのだ。返す返すも、忌々しい舵取め。(問3)

コメント

  1. すいわ より:

    今回、問ニが難しかったです。
    それにしても舵取り、神の名を借りた嫌がらせ、ですね。船乗りとしての誇りがあるのならむしろこんな事は言わなそうです。
    あと、「うつらうつら」がはっきりと、まざまざと、なのですね。うとうととうたた寝する方を最初思い浮かべてしまい、語の注を読んで理解できました。

    • 山川 信一 より:

      「うつらうつら」の語感はそうですね。ただ、この場合の「うつ」は「現・顕」の意味で「ら」は接尾辞です。「うつつ」と同じです。
      ちなみに、「住の江」は、「住吉」の美称です。歌の中と地の文とで使い分けています。

  2. らん より:

    いちかばちか、藁にもすがる思いで、貴重品である鏡を海に投げ入れたら、天気が回復しました。
    鏡、手元に置いておきたかった、悔しいなあ。
    本当に現金な神様だったのか。
    それとも、舵取は天気が回復することを知っていて、力を見せつけたかったのか。
    いずれにしても、舵取に八つ当たりするしかないですね。
    舵取も神様もいまいましいなあと。

    • 山川 信一 より:

      本当に神様のご機嫌が悪かったのか、舵取にしてやられたのか。たぶん、後者だろうと思いながら、忌々しく思っている様子がよく伝わってきますね。
      神様への思いは、昔も今もそんなに変わらないような気がします。「神様の罰が当たるぞ!」と言われれば無視できないし、よい年を願って初詣には行きたいし、幸運を願ってお賽銭を少しはずんだりするし・・・。
      その心理を利用する悪い人は昔も今も絶えません。

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