それぞれの思い

 けふなみなたちそと、ひとびとひねもすにいのるしるしありてかぜなみたゝず。いましかもめむれゐてあそぶところあり。京のちかづくよろこびのあまりにあるわらはのよめるうた、
「いのりくるかざまとおもふをあやなくにかもめさへだになみとみゆらむ」
といひてゆくあひだに、いしづといふところのまつばらおもしろくてはまべとほし。またすみよしのわたりをこぎゆく。あるひとのよめるうた、
いまみてぞみをばしりぬるすみのえのまつよりさきにわれはへにけり
こゝにむかしへびとのはは、ひとひかたときもわすれねばよめる、
すみのえにふねさしよせよわすれくさしるしありやとつみてゆくべく
となむ。うつたへにわすれなむとにはあらで、こひしきこころしばしやすめてまたもこふるちからにせむとなるべし。

今日浪な立ちそと、人々終日に祈る著しありて風波立たず。今し鷗群れゐて遊ぶところあり。京の近づく喜びの余りにある童の詠める歌、
「祈り来る風間と思ふを文なくに鷗さへだに浪と見ゆらむ」
と言ひてゆく間に、石津と言ふ所の松原面白くて浜辺遠し。また住吉の渡りを漕ぎゆく。ある人の詠める歌、
「今見てぞ身をば知りぬる住の江の松より先に我は経にけり」
こゝに昔へ人の母、一日片時も忘れねば詠める、
「住の江に船差し寄せよ忘れ草著しありやと摘みて行くべく」
となむ。うつたへに忘れなむとにはあらで、恋しき心地しばし休めて又も恋ふる力にせむとなるべし。

なみなたちそ:浪よ立ってくれるな。「な・・・そ」は禁止を表す。
あやなくに:筋が通らないことだなあ。文(条理)+な(「ず」の未然形)+く(準体助詞「こと」)+「に」詠嘆の間投助詞。
むかしへひと:故人。昔の人。「へ」は「方」も意で、「いにしへ」の「へ」と同じ。
うつたえにわすれなむ(~あらで):いちずに忘れてしまおう(というのではなく)。「うつたへに」は打ち消しと呼応する。

問1 次の歌を鑑賞しなさい。
①「いのりくるかざまとおもふをあやなくにかもめさへだになみとみゆらむ」
②「いまみてぞみをばしりぬるすみのえのまつよりさきにわれはへにけり」
問2「すみのえにふねさしよせよわすれくさしるしありやとつみてゆくべく」はどのような思いを読んだものか説明しなさい。

コメント

  1. すいわ より:

    問一
    ①鴎が飛ぶということは、岸が近いということ。どうか波が立たないでくれるようにと皆で祈った甲斐があって風も凪いだというのに、今まで荒れた海を見続けて来たせいだろうか、そんな訳はないのに群れなす鴎の白い翼を見ると、その白さえ寄せ来る波に見えてしまうよ。
    ②遠景に見える松原は今も変わらず青々と美しい。それを見るにつけ、この苦労の多い船旅のせいで、あの松よりも先に私は年老いてしまったことを思い知らされる。
    問ニ あの、女の子を亡くした悲しみに暮れる母、住吉の岸辺の原に船を寄せて、また、忘れ草を摘みに行こうとする。でも、今回は全てを忘れ去るのでなく、一時「悲しみ」を忘れることで、思い詰める自分を慰め、またあの子のあれやこれやの思い出を懐かしみ、恋しく思えるようにする為に忘れ草を探しに行こうとしている。

    • 山川 信一 より:

      いずれもいいお答えです。問1①また浪が立たないかという心配からそう思えてしまうのですね。「さへだに」にその思いが表れています。
      ②松が変わらないことから変わってしまった自分を感じたのですね。問2 母の気持ちは周りの人にもちゃんとわかっているのですね。

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