子の日の歌

廿八日、よもすがらあめやまず。けさも。
廿九日、ふなねいだしてゆく。うらうらとてりてこぎゆく。つめのいとながくなりにたるをみてひをかぞふれば、けふは子日なりければきららず。むつきなれば京のねのひのこといひいでゝ、こまつもがなといへどうみなかなればかたしかし。あるをんなのかきていだせるうた、
「おぼつかなけふはねのひかあまならばうみまつをだにひかましものを」
とぞいへる。うみにてねのひのうたにてはいかゞあらむ。またあるひとのよめるうた、
けふなれどわかなもつまずかすがののわがこぎわたるうみになければ」。
かくいひつゝこぎゆく。おもしろきところにふねをよせて「こゝやいづこ」ととひければ、「とさのとまり」とぞいひける。むかしとさといひけるところにすみけるをんな、このふねにまじれりけり。そがいひけらく、「むかししばしありしところのなたくひにぞあなる。あはれ」といひてよめるうた、
としごろをすみしところのなにしおへばきよるなみをもあはれとぞみる」。

廿八日、終夜雨止まず。今朝も。
廿九日、船出して行く。うらうらと照りて漕ぎ行く。爪のいと長くなりにたるを見て日を数ふれば、今日は子日なりければ切らず。正月なれば京の子日の事言ひ出でゝ、「小松もがな」と言へど海中なれば難しかし。ある女の書きて出せる歌、
「覚束な今日は子の日か海女ならば海松をだに引かましものを」
とぞ言へる。海にて子の日の歌にてはいかゞあらむ。又ある人の詠める歌、
「今日なれど若菜も摘まず春日野の我が漕ぎ渡る浦に無ければ」。
かく言ひつゝ漕ぎ行く。おもしろき所に船を寄せて「こゝやいづこ」と問ひければ、「土佐の泊まり」とぞ言ひける。昔土佐と言ひける所に住みける女、この船に混じりけり。そが言ひけらく、「昔しばしありし所の名類にぞあなる。あはれ」と言ひて詠める歌、
「年ごろを住みし所の名にし負へば来寄る浪をもあはれとぞ見る」。

子日なりければきららず:当時は丑の日(次の日)に切るのがよいとされていた。
こまつもがな:正月の子の日には、野に出て小松を引き抜いて庭に植えたり、若菜を摘んだりして遊宴をし、長寿を祝った。
とさのとまり:鳴門市大毛島南端にある。
なたくひ:名が似ていること。

問1「うみにてねのひのうたにてはいかゞあらむ」と言う理由を考えなさい。
問2「むかしとさといひけるところにすみけるをんな、このふねにまじれりけり」という設定にしたのはなぜか、答えなさい。
問3 次の歌を鑑賞しなさい。
①「けふなれどわかなもつまずかすがののわがこぎわたるうみになければ」の歌を鑑賞しなさい。
②「としごろをすみしところのなにしおへばきよるなみをもあはれとぞみる」

コメント

  1. すいわ より:

    問一 「もどかしいこと、今日は子の日よね。私が海女ならばせめて小松の代わりに松の名を持つ海松でも海に潜って引き抜いてくるのに」、と言うのですね。海の上にあっては若菜を摘むことの出来ないことは当然で、嘆いてもせんないこと、口にすることで、かえって京恋しさが募ってしまうので敢えて歌に詠まなくても、との思い。
    問ニ 土佐に住んでいたことのある女を出すことで、歌を詠んだのが書き手と思われなくする為
    問三 「子の日は今日だけれど、若菜も摘むことがない。私が今、漕ぎ渡る海には春日野が無いから。あぁ、京が懐かしい」
    「かつて住んでいた所と名の似ている事を思うと寄せ来る波も似ているように思えて、ただの波ですら懐かしくしみじみとして見つめてしまう」

    • 山川 信一 より:

      問1 歌意はその通りです。ただ理由は、「うみにてねのひのうたにては」という点が十分考慮されていません。嘆くのも歌の役目ですし。
      問2 なぜでしょう?「書き手」とは誰のことですか?「女」?「貫之}?事情は複雑です。
      問3 どちらも歌意は正しく捉えています。鑑賞を加えると更にいいですね。

タイトルとURLをコピーしました