いづれか歌を詠まざりける

廿一日、うのときばかりにふなです。みなひとびとのふねいづ。これをみればはるのうみにあきのこのはしもちれるやうにぞありける。おぼろげの願によりてにやあらむ、かぜもふかずよきひいできてこぎゆく。このあひだにつかはれむとて、つきてくるわらはあり。それがうたふふなうた、
「なほこそくにのかたはみやらるれ、わがちちははありとしおもへば。かへらや」
とうたふぞあはれなる。かくうたふをききつゝこぎくるに、くろとりといふとりいはのうへにあつまりをり。そのいはのもとになみしろくうちよす。かぢとりのいふやう「くろとりのもとにしろきなみをよす」とぞいふ。このことばなにとにはなけれど、ものいふやうにぞきこえたる。ひとのほどにあはねばとがむるなり。かくいひつゝゆくに、ふなぎみなるひとなみをみて、くによりはじめてかいぞくむくいせむといふなることをおもふうへに、うみのまたおそろしければ、かしらもみなしらけぬ。ななそじやそじはうみにあるものなりけり
わがかみのゆきといそべのしらなみといづれまされりおきつしまもり
かぢとりいへ。

問1 付いてきた童の哀愁のある舟唄、舵取の気の利いた詞のエピソードを通して何を伝えようとしているのか、答えなさい。
問2「ななそじやそじはうみにあるものなりけり」は、どういうことを言いたいのか、答えなさい。
問3「わがかみのゆきといそべのしらなみといづれまされりおきつしまもり」を鑑賞しなさい。

二十一日、ようやく出航する。その湊には、旧国司一行以外にも多くの船が停泊していたようだ。それが一斉に船出した。その様子は、「春の海に秋の木の葉しも散れるやうに」見えて、感動しているのだから、一首詠んでもよさそうなのに詠んでいない。幸福感がありすぎると、かえって歌ができないということか。
絶好の日和の中、船は進む。停泊中に使われようと付いてきた子どもがいた。この子が歌う舟唄は、まるでこの子の思いをそのまま表しているように聞こえて、哀れを催した。黒鳥という鳥が岩に群がり、白い波が打ち寄せていた。それを見た舵取りが「(風が)黒鳥の元に白き浪を寄せる」と言う。この言葉は、特別のことを言っているわけでは無いけれど、気が利いていて、歌のように聞こえた。舵取の身の程に合わないので、心に残ったのだ。
こうして進み行くと、船君である人が波を見てこう言った。「国府を発って以来海賊の復讐を心配する上に、海が恐ろしかったので、すっかり髪が真っ白になってしまった。海にいると気苦労で年を取りやすいものだなあ。」そして、こう歌った。「私の髪の白さと磯に打ち寄せる白波とどちらが勝っているか。沖の島守よ、答えてくれ。」
舵取りよ、島守に聞いてくれ。
童にしても舵取りにしても、和歌を詠む技術には欠けているけれど、その素養はある、歌心は持っていると言いたいのだ。『古今和歌集・仮名序』には、「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもののいづれか歌を詠まざりける。」とある。貫之は、このことを実証している。(問1)
海では気苦労が多く、年より老けてしまうと言うが、そのことを改めて実感している。(「けり」は、あることに気が付いて詠嘆する気持ちを表している。)旧国司は在宿中、海賊を取り締まったのだろう。その復讐を受けるのではないかと心配している。それでなくても、浪が荒く船はいつ海に飲み込まれるかわからないのだ。(問2)
自分の髪は、雪にたとえるほど真っ白である。それは、磯に打ち寄せる白波に匹敵するほどだ。その白さのほどは沖の島守なら判定できるだろう。お前さんなら、気苦労から老けてしまったことを嘆く気持ちをわかってくれるよね。浪へのこだわりが強く、浪を題材にして詠みたいと思う気持ちが続いている。(問3)

コメント

  1. すいわ より:

    問一、なるほど「青海原」のエピソードで言語の違いがあれ、心に起こる感動に変わりはない、共感を得る事ができるものと言ってました。歌心は身の上の違いも越えるものであると言いたいのですね。確かにどこぞの恐らく貧しい童の歌に「うたふぞあはれなる」と感動していますね。
    問三、歌で終わっていたら、先生のおっしゃる通り、打ち寄せる荒波の白さを自分の白髪と対照して浪の歌を、と思ったのですが、最後の「かぢとりいへ」この六文字をどうとらえるかで悩みました。船君の海賊への恐れを強く感じられたので、その対策の指示を歌に詠んで、島守へ伝えるよう、舵取りに命じたのだと思いました。

    • 山川 信一 より:

      問3は、翆和さんの読みもあると思います。「島守」には、海賊を取り締まる役割も有りそうですから。
      私はそこまでの含みを感じなかったので、単に海をよく知る者と解しました。その場合、ここに「島守」がいないので、代わりに舵取りよ、変わって答えろとも読めます。

  2. らん より:

    幸福感でいっぱいで歌ができないこと。胸がいっぱいなんですね。
    どんな人も歌心があると思います。
    私も日々、そういう心を、感じる気持ちを大事にしないとと、ハッとさせられました。

    • 山川 信一 より:

      和歌は、人の心を癒やすものなのでしょう。だから、かえって幸せいっぱいの時には必要ないのかもしれませんね。
      貫之は、老若男女誰しもが日常を歌に詠みより味わい深くしていくべきだ、和歌こそが人間らしく生きる術なのだと考えています。
      『土佐日記』は、それを実証するために書かれたのではないでしょうか。見習いたいものですね。

    • すいわ より:

      らんさんの直球ストレートなコメントに、私はいつもハッとさせられています。

  3. らん より:

    すいわさん、先生。
    私はいつも考えが浅はかなだけですよ。そんなことはありません。
    すみません、ありがとうございます^_^

    • 山川 信一 より:

      謙虚であることは大切ですが、自分を卑下することはありません。
      らんさんらしいコメントをお待ちしています。

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