童の返歌

かくてこのあひだにことおほかり。けふわりごもたせてきたる人、そのななどぞや、いまおもひいでむ。このひとうたよまむとおもふこころありてなりけり。とかくいひいひてなみのたつなることゝうれへいひてよめるうた、
ゆくさきにたつしらなみのこゑよりもおくれてなかむわれやまさらむ
とぞよめる。いとおほごゑなるべし。もてきたるものよりうたはいかゞあらむ。このうたをこれかれあはれがれどもひとりもかへしせずしつべきひともまじれゝどこれをのみいたがりものをのみくひてよふけぬ。このうたぬしなむ「まだまからず」といひてたちぬ。あるひとのこのわらはなるひそかにいふ「まろこのうたのかへしせむ」といふ。おどろきて「いとをかしきことかな。よみてむやは。よみつべくばはやいへかし」といふ。「まからずとてたちぬる人をまちてよまむ」とてもとめけるを、よふけぬとにやありけむ、やがていにけり。「そもそもいかゞよんだる」といぶかしがりてとふ。このわらはさすがにはぢていはず。しひてとへばいへるうた、
ゆくひともとまるもそでのなみだがはみぎはのみこそぬれまさりけれ
となむよめる。かくはいふものか、うつくしければにやあらむ、いとおもはずなりわらはごとにてはなにかはせむ、おんなおきなてをしつべし、あしくもあれいかにもあれ、たよりあらばやらむとておかれぬめり

かくてこの間に事多かり。今日破籠持たせて来る人、その名などぞや、今思ひ出でむ。この人歌詠まむと思ふ心有りてなりけり。とかく言ひて浪の立つなることゝ憂へ言ひて詠める歌、
「行く先に立つ白浪の聲よりも後れて泣かむ我やまさらむ」
とぞ詠める。いと大聲なるべし。持てきたる物より歌はいかゞあらむ。この歌を此彼あはれがれども一人も返しせず。しつべき人も交れゝどこれをのみいたがり物を飲み食ひて夜更けぬ。この歌主なむ「まだまからず」と言ひて立ちぬ。ある人の子の童なる密にいふ「麿この歌の返しせむ」といふ。驚きて「いとをかしきことかな。詠みてむやは。詠みつべくばはや言へかし」と言ふ。「まからずとて立ちぬる人を待ちて詠まむ」とて求めけるを、夜更けぬとにやありけむ、やがて往にけり。「そもそもいかゞ詠んだる」といぶかしがりて問ふ。この童さすがに恥ぢていはず。強ひて問へば言へる歌、
「行く人も留まるも袖の涙川汀のみこそ濡れ勝りけれ」
となむ詠める。かくは言ふものか、うつくしければにやあらむ、いと思はずなり。童言にては何かはせむ、女翁手をしつべし、悪しくもあれ如何にもあれ、頼りあらば遣らむとて置かれぬめり。

このあひだ:この日の内に
わりご:弁当箱として用いた檜の白木で作った容器。
そのななどぞや、いまおもひいでむ:その名などは今に思い出すだろう。軽い扱い。
なみのたつなることゝうれへいひて:波が立つ音が聞こえますなと心配事を口にして。「なる」は聴覚推定の助動詞。「~の音がするようだ」
ゆくさきにたつしらなみのこゑよりもおくれてなかむわれやまさらむ:あなたが帰っていく先の白波の声よりも後に残されて泣くことになる私の泣き声の方が勝っているだろう。
しつべきひと:暗に旧国司(=貫之)を指す。
いたがり:感心する。
「まだまからず」といひてたちぬ:(返歌して貰ってないので)また帰りませんと言って、中座した。
よみてむやは:(子どもに)読みおおせるだろうか。「て」は人為的完了の助動詞{つ」の未然形。「やは」は疑問。
やがていにけり:(中座して)そのまま帰ってしまったのだった。
ゆくひともとまるもそでのなみだがはみぎはのみこそぬれまさりけれ:行く人も留まる人も別れの哀しみで袖を濡らす涙、その涙が流れ落ちてできる涙の川は、海との際の水嵩が一層増すばかりである。
かくはいふものか、うつくしければにやあらむ、いとおもはずなり:このように言うものか、読み手が可愛いからだろうか、全く予想外だった。(意外なことに感動している。)
たよりあらばやらむとておかれぬめり:(この童の歌は)ついでがあれば送ってやろうということで取り置かれたようだ。

問1「このひとうたよまむとおもふこころありてなりけり」とは、どういう事情を言うのか、説明しなさい。
問2「このうたをこれかれあはれがれどもひとりもかへしせず」とあるが、その理由を説明しなさい。
問3「わらはごとにてはなにかはせむ、おんなおきなてをしつべし」とはどういうことか、答えなさい。
問4 この童の歌を「かくはいふものか、うつくしければにやあらむ、いとおもはずなり」と、一応の評価を与えている。その理由を説明しなさい。

コメント

  1. すいわ より:

    問一 差し入れは名目でそれにかこつけて(歌詠みの才で有名な)旧国司に自分の歌を披露したくて、訪ね来た。
    何という名だだったかなぁ、と言われるあたり、あまり関わりたくない人だったのでしょう。

    問二 この客人は歌を詠うシチュエーションまで自分で演出して得意満面に詠ったけれど、返歌するに値しない出来の歌、ご馳走になった手前「結構なお歌ですね」とは言うものの、返歌したら、また、次の歌と大騒ぎしかねないので、お義理で歌を褒めることだけはした。

    問三 幼子が詠んだにしては思いの外、返歌として格好が付いていて良く出来ているが、流石に子供の手のものを返したとあっては角が立つので、この子の祖母が作った歌として返すのが良かろう、という事。

    問四 こんな小さい子が歌など読めまい、と思っていたところ、先の詠み手の歌に対応させて行く人、残る人、別れの涙、海などなどをちゃんと盛り込んで詠んだ事に感心した。

    • 山川 信一 より:

      いずれも、お答えは、私が期待したものでした。
      問1、その通りです。名前を忘れたふりをしているのは、この後不名誉なことを言うからかもしれません。問2、その場にいた人が誰しも、返歌する気になれない出来だったのですね。
      問3,「女翁」は、女か翁でしょう。祖母、お婆さんなら、媼と言います。要するに、大人が作ったことにしようという訳です。問4、形式、内容共に返歌にふさわしいものだったのでしょう。子どもが作ったということに意外性もありました。

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