洒落の訳

廿二日、いづみのくにまでとたひらかに願たつ。ふじはらのときざね ふなぢなれどむまのはなむけす。かみなかしもゑひあきていとあやしくしほうみのほとりにてあざれあへり

「二十二日に」と「に」を書き入れたのは、夜を徹して宴を催している内に日付が変わり二十二日になっていた。そのことに気付く。その思いを「に」に込めたのである。まだ夜中で意識の中では二十一日が続いていたからである。
神仏に祈る折りには、それまで騒いでいても、心を静めて祈る。それが「平らかに願立つ」である。
「和泉の国まで」なのは、そこまでが海路であり、最も気になるところである。その安全を土地の神様に祈ったからである。その御利益は和泉の国までなのだ。そこからはまた別の神に祈ることになる。ちなみに、海からは川に入り陸路は行かない。
「ふじはらのときざね」という固有名詞が説明もなく出てくる。恐らく、土地の有名人だったのだろう。また、仮にその人物を知らなくても、「藤原」でおおよその人格が想像できると予想しているからだ。つまり、今をときめく藤原の姓を持つ人物なのである。藤原一族の流れを酌んでいるのだ。この地でも有力者に違いない。その藤原時実が一族郎党引き連れて送別会を開いてくれた。盛大なものだったのだろう。
「ふなぢなれどむまのはなむけす」はユーモラスな洒落ではある。船路であるから馬で行く訳ではない。それなのに馬の鼻向けをしたという意味だ。けれど、問題はどんな気持ちで言っているかである。単に笑いを取ろうとしているのか。そうではあるまい。次の文を読むとその理由がわかる。
「いとあやしくしほうみのほとりにてあざれあへり」
「あやしく」には、①道理や礼儀に外れたことをして非難されるべきだ。と②不思議だ。奇妙だ。とが掛かっている。それを踏まえると、次のような意味になる。
たいそうけしからんほどに、主人も家来も誰もが飽きるほど酔っぱらって海の辺りで戯れている。不思議にも、塩が利いているのに腐っている。(腐っているとは、酔って正体を失っている様子を言う。ここでも洒落が使われている。)
書き手は、この様子をどう思って見ているのだろう。藤原時実一行は送別にかこつけて正体無く酔っぱらっているのだ。送別の思いなどどうでもいい、自分たちが酔えさえすればいいと思っている。したがって、それを苦々しく思っていることが想像される。この洒落にはその思いが籠められているはずだ。この洒落は、オブラートに被せた皮肉であり、批判である。(それだから、書き手が自分(貫之)であると思われたくないのだ。)

コメント

  1. すいわ より:

    深夜、日を跨いでまで宴会は続いたのですね。日が改まったのだと。
    和泉からは陸路だと思いました。それで馬の鼻向け、ここからは船旅なのに随分先の事まで気が早いなぁという事も船旅に馬と掛けて二重に言っているのかと思ったのですが、川を登るのですね。小舟に乗り継ぐのでしょうか。川を登るのはそれはそれで大変そうですね。
    送別にかこつけて権勢を誇ってこれ見よがしに大盤振る舞い、そしてそれに群がって正体なく酔っ払う一団。腐っていますね。時の権力者に真っ向正面からもの言うわけにはいかないけれど、洒落に乗じて批判したのですね。貫之さん、読みきれず、ごめんなさい。未だそうした風潮は正されていません。

    • 山川 信一 より:

      和泉の国からもしばらくは海路で行って、そのまま川に入っていくようです。それはそれで大変でした。
      「送別にかこつけて権勢を誇ってこれ見よがしに大盤振る舞い」まさにそれです。藤原時実の振る舞いは、今も変わりませんね。
      いつの世も正面切って批判できない時は、洒落にこと寄せて皮肉を言うしかありません。
      笑いは皮肉や批判であることもあります。「アベノマスク」もそれですね。

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