不自然な表現

をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり。

『古文研究法』(小西甚一)という古典的参考書がある。初版は昭和三十年であるから、六十五年も前に出されている。しかし、この本は現在でも国語教師の座右にあったりする。まさに「名著」である。私もかつてこの本で勉強し、学んだことは数知れない。良著であることは確かだ。この本の「はじめに」に次のような記述がある。
「英語を勉強するのと同様の態度、つまり、外国人になったつもりで、古語を外国語あつかいで学習する態度、これが古文学習の根本である。」
この言葉は、一面の真実を言ってはいる。しかし、それ以上に古文学習に弊害を生んでしまった。古文は、「外国人になったつもり」で、つまり、外国語として読むべきではない。古文であろうと、それは母語である日本語だからである。母語であるからこそ感覚としてわかることがある。現代語にも古語にも一貫している日本語としての特徴があるからだ。日本語を母語とする者は、それを感覚的に察する。だから、その感覚を生かして読むのが正しい態度である。なぜなら、書き手もそれを前提して書いているからだ。理屈のみを駆使して読む外国語との違いがそこにある。そうしないと、時に大事なことに気付かないことになる。
小西氏の罪は、学習者に根本的に間違った学習態度を示してしまったことにある。その悪影響は計り知れない。古文を特別あつかいしすぎてはいけない。母語日本語話者としての感覚を駆使して読むべきである。
問1「すなる」の「なる」は伝聞の助動詞の連体形である。〈・・・すると言う〉という意味になる。それに対して、「するなり」の「なり」は断定の助動詞の終止形である。〈・・・のだ〉という意味になる。
すると、現代語では、次のように言えそうである。
〈男もすると聞いている日記と言うものを女もしてみようとしてするのだ。〉
日記は普通男が漢字で書くものである。それを女が仮名文字で書こうと試みるのだという意味になりそうである。
ところで、この日記を読み進めれば、紀貫之が書いたものであることがわかる。と言うより、それがわかる人にはわかる。では、なぜこんな設定にしたのか。すると、次の考えが浮かぶ。貫之は、何らかの事情でストレートに自分が作者であると思われたくなかったからだ。とりあえず、自分が作者ではあることを隠したかったのである。ただし、読む人が読めば、それがわかるように書いたのだ。一応こう考えておこう。
さて、それはさておき、この文は、日本語として不自然ではないか。現代文でも不自然なら古文でも不自然なのだ。そう思うべきである。これが外国語であれば、「こう言うのだ」と納得するしかない。しかし、母語ゆえに感覚として変だと感じる。その証拠にこの文を口語に言い換えようとすると、「男もするという~」ではなく、「男がするという~」と言いたくなる。それが母語の感覚である。古文であれば「男のすなる~」と言うべきだ。ならば、考えるべきは、作者はなぜ「男も」と言ったのかである。
これは読み手に不自然さを感じさせたいからではないのか。「何か有る」と身構えさせたいのである。そう思って読み返すと、不自然さは他にもある。日記は「する」ものであろうか。「書く」ものではないのか。ならば、なぜ「をとこもかくなる日記といふものを をむなもかき(い)てみむとてかくなり」と言わないのか。「日記する」は今も昔も不自然な言い方だ。「食事する」とは言うが、「お茶する」は、人によっては言わない。「コーヒーする」「ビールする」とは普通言わない。まして、文学作品の冒頭に「日記する」は無いだろう。これも敢えて不自然に書いているのだ。
さらに、「してみむとしてするなり」もくどい言い方だ。なぜ「してみむ」と言いきらないのか。あるいは、「してみむとして」を省略して、「するなり」「せむなり」と言わないのか。これも不自然な言い方である。
まさにわかる人にだけわかるように書いたのである。貫之は読者を選んでいる。しかし、それに選ばれるのは難しい。現に、多くの大学教授でさえその読者に選ばれていない。注釈書等で彼らがこの文をどんな現代語に置き換えているかを調べてみるといい。(明日に続く。)

コメント

  1. すいわ より:

    教科的には文学史で紀貫之の書いた「土佐日記」と紹介され、内容には触れずに終わっています。あまりにも有名な書き出し「をとこもすなる日記といふものを」、かつて、たった四文字目の「も」で「も」って何?と引っ掛かってしまい、「女の人が書いた」から、わざと文章的にも不自然で拙い感じを出して書いたのか?とも思ったのですが、もやもやしたままそれっきり手付かずでおりました。長年の疑問が解消してスッキリしました。有難うございます。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんが抱いた違和感が重要です。作者はそれを前提に書いています。そこを素通りしてはいけないのに、授業では「そういうことになっている。」で済ませています。これではとても非教育的です。
      さて、謎解きは、これからです。

  2. すいわ より:

    疑問を持っても良かったのだと思えたことが、嬉しかったです。胸の支えが下りました。

    • 山川 信一 より:

      本来授業とは、生徒の疑問に答えるためにあるべきです。それがなされない授業は授業と言えません。
      また、疑問を持つことが間違っているように思わせてしまいます。それでは、生徒は疑問を抱かなくなってしまいます。
      胸の支えが下がって幸いでした。

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