一点の彼を憎むこゝろ

嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡《なうり》に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。
                      (明治二十三年一月)

「豊太郎は相沢を世に得がたい良友だ、しかし、一点憎む思いもあると言う。ここからどんなことがわかる?」
「豊太郎の名誉を回復して、日本に帰れるようにしてくれたことに、すごく感謝していることがわかる。」
「と言うことは、豊太郎はそのことに満足しているってことだね。エリスと自分の子を棄てたことは仕方ないと思っているんだ。これって、あまりに利己的じゃない?」
「それは、お国のためにお役に立てるという大義名分があるからじゃない。それが言い訳になっているんだ。」
「一点だけ、相沢を憎むのは、エリスを精神的に殺したからだよね。でも、これっておかしくない?逆恨みだよ。原因は自分じゃないか。責任転嫁もいいところだよね。」
「豊太郎は、多分こう言いたいんだ。告げるにしても言い方が有ったんじゃないか。自分ならもっと優しく伝えられたって。」
「ホント?豊太郎は本気でそう思っていると思う?無理だってことくらい一番知っているはずなのに。」
「そう思うと、虫がいいというか、自分に甘いと言うか、救いようのない男だね。ますます嫌いになった。」
「ホント後味が悪い終わり方だよね。鷗外はなぜそうしたんだろう?」
「普通、物語を読むと、自然に主人公に感情移入してしまいがちだよね。それをさせないようにしたんじゃないかな。豊太郎への共感を徹底的に排するために。」
「これは、豊太郎的生き方を批判する小説なんだね。」
「明治二十三年は今から百三十年前だけど、ここで問題にされたことはほとんどが今でも解決されないままになっている。あたしたちで何とかしたいね。」
相沢は、功利主義者だ。功利主義は、利己主義ではない。少しでも多くの人が共に幸せになる道を考える。言わば、「最大多数の最大幸福」を考える。相沢は、豊太郎とエリスについても、それを当てはめたのだ。その結果、別れるのが一番いいと判断した。なるほど、合理的判断ではある。豊太郎は、日本という国家にとって重要な人物である。彼によって、多くの国民が幸せになれる可能性がある。しかし、一方そのためにエリスという個人が犠牲になった。本当にそれでもいいのか。豊太郎の心の中にもそんな疑問が有るのではないか。そして、それは鷗外の疑問でもある。

コメント

  1. らん より:

    相澤を逆恨みする豊太郎がますます嫌いになりました。
    だったら日本に帰らずエリスのそばにいればよかったじゃないと思いました。
    何も自分で決めなかったくせに。
    今回のことで、個人のエリスとおなかの子供が犠牲になりました。
    エリスがかわいそうでなりません。
    私もそのことをずっと考えていこうと思います。
    先生、いろいろ教えていただきありがとうございました。
    また次も楽しみにしています。

    • 山川 信一 より:

      幸せを秤に掛けて重い方を取る。この場合、エリスの不幸と日本の未来を秤に掛けたのでしょう。
      それも、決めたのは相沢で、豊太郎には決められません。それに従っただけです。実に情けない男です。
      その後のエリス、生まれてくる子どもが気になります。
      最後まで参加してくれてありがとうございました。またお目にかかりましょう。

  2. すいわ より:

    豊太郎は免職という挫折から学んだのですね。お上には逆らわない。それが正しい事なのだからその為に必要なら愛する人(?)を捨てるのは仕方がない事。相沢は剛気だからめちゃくちゃに綺麗なエリスを壊してしまって。私なら、エリスを夢の中に置いたままに出来たのに、、、教室で「舞姫」を読んだ時、豊太郎はなんて優柔不断で駄目な奴なんだろうと思ってはいましたが、今回、豊太郎がここまで利己的で自分を演出している事に驚きました。読み進めるのが憂鬱でした。自分の置かれている立ち位置が変わったからでしょう。学校という閉鎖された社会の中、自分では自覚できませんが守られて生きていたのだ、と。そもそも小説なのだから、豊太郎のような人間はそういるものではない、と思っていた。一歩社会に足を踏み出すと、「トヨタロウ」がゾロゾロいる事に気付く。相沢のようにエリスを切ることで「切ったヤツ」という誹りを甘んじて受け、傷を自らも負うのならまだマシ、豊太郎はエリスの変貌に涙しているけれど、そのうち誰かを踏み台にしても痛みも感じず踏み進むようになるでしょう。不信の連鎖は一世紀以上の時間を掛けて寧ろ増幅している、日本に限られたことではないのが今の世界情勢を見ても明らかですね。換算できないものの価値を知らねばなりませんね
    。誰もが実は持っている、みんなが知っているもの。
    毎回思うことですが、先生の授業だと、作者が今まさに生きていて、語りかけて来るように感じられます。「国語」が楽しい。嬉しいです。有難うございます。

    • 山川 信一 より:

      「豊太郎がここまで利己的で自分を演出している」とありますが、告白の場合、多かれ少なかれ自分の都合の良いように話すものです。豊太郎は誠実に話しているようでも、誤魔化しがありましたね。
      「学校という閉鎖された社会の中」とありますが、学校は社会を反映しています。いえ、反映しすぎています。もっと、批判的であるべきなのに。今や理想を教えることができるのは学校だけなのに。
      たとえば、学校は「時計的時間」を教えます。恐らく無自覚に。しかし、実は「時計的時間」は多くの時間のたとえの一つでしかありません。ミヒャエル・エンデの『モモ』はそれを批判しています。
      こうした学校教育が「豊太郎」を生み出しているのです。学校はもっと批判されるべきです。 授業へのお褒めのお言葉ありがとうございます。

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