風に弄ばるゝに似たり

四階の屋根裏には、エリスはまだ寝《い》ねずと覚《お》ぼしく、烱然《けいぜん》たる一星の火、暗き空にすかせば、明かに見ゆるが、降りしきる鷺の如き雪片に、乍《たちま》ち掩はれ、乍ちまた顕れて、風に弄《もてあそ》ばるゝに似たり。戸口に入りしより疲を覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這《は》ふ如くに梯を登りつ。庖厨《はうちゆう》を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に倚りて襁褓《むつき》縫ひたりしエリスは振り返へりて、「あ」と叫びぬ。「いかにかし玉ひし。おん身の姿は。」
 驚きしも宜《うべ》なりけり、蒼然として死人に等しき我面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪は蓬《おど》ろと乱れて、幾度か道にて跌《つまづ》き倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に汙《よご》れ、処々は裂けたれば。
 余は答へんとすれど声出でず、膝の頻《しき》りに戦《をのゝ》かれて立つに堪へねば、椅子を握《つか》まんとせしまでは覚えしが、その儘《まゝ》に地に倒れぬ。

「家の前まで辿り着いて、四階の屋根裏部屋を見上げる。真夜中だけど、そこだけに灯りがともっている。「烱然」は、光り輝いている。「一星の火」は、一点の火。エリスが豊太郎を待って起きていることがわかる。暗い空を背景に明るく見えるけれど、降りしきる、鷺のように真っ白な雪片に、たちまち覆われ、また現れて、風にもてあそばれるようだった。この様子は象徴的だよね。豊太郎にはなぜそう見えたのかな?」
「その様子が自分にもてあそばれる、可哀想なエリスを象徴しているように思えたんだ。風前の灯火って感じ。」
「戸口に入ると、安心したのか急に疲れを感じて、節々の痛みが耐えがたかったので、這うように階段を上った。台所を過ぎ、部屋の戸を開けたところ、机にもたれかかってオムツを縫っていたエリスが振りかえって、「あっ」叫んだ。「どうなさったのですか。あなたの姿は。そりゃあ、驚くよね。大臣に会いに行ったきりなかなか帰ってこなかった上、死人のような顔色をして、ボロボロになって帰ってきたんだから。豊太郎は膝が立たなくなって、その場に倒れ、気を失ってしまう。」
エリスは豊太郎がロシアから帰ってきてからの数日は、幸せだったに違いない。二人でいることがどんなに幸せかを再認識した。豊太郎は、ちゃんと自分のところに帰ってきてくれたのだ。一抹の不安はあっても、豊太郎からの愛が感じられた。ロシアからのお土産もいっぱい有った。御者に持って上がらせた鞄には、お土産が入っていたのだろう。その上、思いがけない報酬も手にすることができたのだろう。豊太郎からロシアでの活躍も聞くことができた。大臣に重んじられていることがわかる。ますます、豊太郎を誇らしく思う。大臣から招かれても、この時はあまり不安はなかった。今日はどんなお土産を持ってきてくれるのだろか、そんな気持ちさえあったのかもしれない。そこに、豊太郎が思っても見ないほどみすぼらしい姿で帰ってきた。一体何があったのだ。豊太郎の身を案じると同時にある種の不幸を予感する。恐ろしい運命が口を開けて自分を飲み込もうとしてるような気がする。
恐らく豊太郎は、急性肺炎を起こしたんだろう。気を失ったのは、現実から逃避したいと思っていたことが影響したのだろうか。ある意味で都合が良いことになった。

コメント

  1. すいわ より:

    豊太郎、嵐の海に投げ出された小舟のようでもありますね。きっとそこに辿り着けば温かさを手に入れられる。今欲しいのはその温かさ。エリスを切り離そうとしているというのに。灯台の燈を灯してくれているのは誰?そんなわかり切っている事を、彼女を頼みにしながら手放さねばならない状況を作ってしまう豊太郎。楽でいいですね、泣いたもの勝ち、意識を失って説明の責任すら果たさずに済んでしまう。

    • 山川 信一 より:

      なぜ豊太郎はエリスの元に帰ってきたのでしょうか?許しを請うためでしょうか?だとしても、その前にエリスの裁きを受けなくてはなりません。
      今回ばかりは逃げることはできません。しかし、その決心がつかないうちに、戻ってきました。この姿は、心を決めかねた下人が寒さをしのぐために、羅生門に登っていった姿とリンクします。
      豊太郎も下人と変わるところがない人間、つまり、物事の判断を自分ではできない日本人なのです。自然に身を任せた後は、エリスに身を任せようとしているのです。

  2. らん より:

    豊太郎、ぼろぼろになって帰ってきました。
    なんで、「エリスと子供も一緒にいいですか」って言えないのかなあ。
    無責任すぎます。
    自分さえ良ければいいんですね。
    悩む気持ちもわかりますが。。。
    エリスの気持ち、考えてくれないかなあ。豊太郎、お願いします。

    • 山川 信一 より:

      「自分さえ良ければいい」と割り切れればまだいいのです。開き直って悪人に徹すればいいのですから。でも、豊太郎にはそれもできません。
      悪人に徹する勇気が出ないのです。エリスの前では、エリスが思っている「いい人」でいたいのです。そのイメージを崩したくないのです。
      その意味では「自分さえ良ければいい」でしょう。エリスの気持ちは二の次になっています。

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