神も知るらむ

大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。余はこれに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想《おもひ》到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし歟《か》。先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上の禽《とり》の如くなりしが、今は稍々《やゝ》これを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々《しか/″\》といひしは、大臣のかく宣《のたま》ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。

「ここは、職場に於ける今の立場について述べている。順を追って意味を捉えていくね。大臣は既に豊太郎を手厚く扱っている。しかし、豊太郎は自分が尽くした仕事の役割だけを見ていた。それによるものだと思っていた。これによる大臣からの信頼に未来の望みを繋ぐことは、神に誓って、断じて思い至らなかった。これって、何が言いたいの?」
「自分はひたすら与えられた仕事をこなしていただけで、大臣に取り入ろうなどとは思ってもいなかったということ。」
「しかし、今になってこのことに気が付いて、私の心は依然として冷ややかだったか。これってどういうこと?」
「もしかすると名誉が回復できるかもしれないと思って興奮したってことだよね。」
「相沢が大臣に推薦してくれた時は、大臣の信用は屋根の上の鳥のように得られるかどうか当てにならなかったけど、今は信用を少しは得たかなと思われたところ、相沢がこの頃言葉の端々に、日本に帰って後も一緒にこのようにあるならば云々と言ったのは、大臣がそうおっしゃったのを、友達ではあるけれど、公事なので、はっきりとは告げなかったのか。これはどういうこと?」
「大臣は、豊太郎が有能であることがわかって、日本に連れて帰り使おうと決めていたんだ。それを相沢にだけは告げていたけど、公事なので友達だからと言って、はっきり言えなかったってこと。」
「今更思うと、豊太郎が軽率にも相沢に向かって、エリスとの関係を断とうと言ったのを、早くも大臣に告げたのだろうか。ここで、「軽率にも」というのはなぜ?」
「その時は、エリスと容易く別れることが出来ると思っていたけど、今になってみると、そう簡単にはいかないことがわかったから。」
豊太郎という人物をどこまで信用していいんだろう。「わが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。」は、そうかもしれない。しかし、「これに未来の望を繋ぐこと」は、本当に思ってもみなかったことだろうか。これは相沢が示していた方針ではないか。言葉通りには受け取れない。また、エリスと別れることを相沢が大臣に告げたのではないかと疑っているけど、これから召し抱えようとする人物の身辺調査は欠かせない。当然のことだ。そんなことにも気が回らないなんて、頭がいいんだか悪いんだか。豊太郎という人物は、物事を大局的に捉える能力が極端に欠けている。

コメント

  1. すいわ より:

    いつも、その時の思い付き、場当たり的な対応をしますよね。常に母が露払いし、レールを敷いてくれて安全確認せずともただその上を走っていれば目的地に到着していた。周りなど気にする必要なく育って来たのでした。別れろと言われればその場でyes、ロシアに付いてくるかと問われればyes。考えて返事をしているのでなく断れないから。自分では誠実なつもりでも、自分の口にした言葉を履行できなければ、矛盾が生じてしまう。相沢の用意周到さと比べると正に大人と子供。相沢にしてみれば、豊太郎を他に引っ張られないように新聞社に口利きした段階で大臣へ繋げるつもりだったことでしょう。子供まで作っておきながらエリスの本気度に気付かずに慌てる。別れろと言われたのに別れられない。ロシアに来る前に当然、身辺整理は付いているよな?と問われたら、、エリスにはまさか私を捨てるなんてこと無いわよね?と問われて。誰も決めてくれない。八方塞がりの豊太郎。どうする?

    • 山川 信一 より:

      厳しい言葉でまとめられていますが、まさにその通りです。本当に情けない限りです。ただし、これが「理想的な」人生航路を歩んできたエリートの正体なのです。
      いい学校、いい職場、海外留学、語学堪能・・・、これらは現在でも多くの人たちが目指す理想です。しかし、それを実現したエリートがこの情けなさなのです。
      「母の敷いたレール」は、世間の価値観に基づいています。母は典型的な俗物です。豊太郎の情けない姿は、鷗外による社会批判・俗物批判でもあります。

  2. らん より:

    つくづく、豊太郎は優柔不断な男だなあと思います。
    なんか、のらりくらりしてますね。

    • 山川 信一 より:

      自分にとって何が最も大切なのかが今一つわかっていません。なぜなら、それは今まで人が敷いたレールをひたすら走ってきたからです。
      よりよく生きるためには満たすように生きればいい。しかし、それが何によって満たせるのががわかっていません。あるいは、わかろうとしません。
      らんさんは、わかっていますか?

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