我をば努な棄て玉ひそ

又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深き底《そこひ》をば今ぞ知りぬる。君は故里《ふるさと》に頼もしき族《やから》なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは止《や》まじ。それも愜《かな》はで東《ひんがし》に還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処《いづく》よりか得ん。怎《いか》なる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。袂《たもと》を分つはたゞ一瞬の苦艱《くげん》なりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令《よしや》いかなることありとも、我をば努《ゆめ》な棄て玉ひそ。母とはいたく争ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わが東《ひんがし》に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管《ひたすら》君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。

「この手紙は思いが迫った時のものだね。「もう嫌!」という言葉で始まっている。その上でエリスの決意が書かれている。ではちょっと、エリスの気持ちになってみるね。「もう嫌、あなたと離れてるのは!あなたをどんなに愛しているか、今思い知ったわ。あなたは、故郷に身寄りが無いとおっしゃってたから、この地にいい生活手段があれば、必ず留まってくれるわよね。いいえ、私の愛で絶対に繋ぎ止めてみせるわ!それも出来なくて東にお帰りになるなら、親と一緒について行くのは容易いけれど、あれ程多額の旅費をどこから得られるか。それは、とても無理。だから、どんな仕事でもしてこの地に留まって、あなたが出世なさる日を待っていようといつもは思っていたけど、しばらくの旅だとあなたが出発なさってからこの二十日あまり、離れ離れの悲しみは日に日に強くなっていくばかり。別れはただ一瞬の苦しみだと思ったのは、とんでもない間違いだった。あたしの体は妊娠がいよいよはっきりしてきた。そのことまでもあるのに・・・、たとえどんなことがあっても、私を決してお棄てならないでください。母とはひどい喧嘩をしたわ。だけど、母も私の体が以前とはすっかり変わり、心が決まっているのを見てようやくわかってくれた。私が東に行く日には、ステツチン辺りの農家に、遠い親戚がいるので、身を寄せようと言うのよ。あなたが書きおくってくれたように、あなたは大臣様に重く用いられているので、私の旅費くらいはなんとかなるでしょう。(だって、私はあなたの妻なんですもの。)今はひたすらあなたがベルリンにお帰りになるのを待つだけです。」
このエリスの決意をどう思う?」
「エリスは、離れ離れの寂しさと不安から、いろんなことを考えてしまうんだ。想像は留まることを知らない。それにしても、さすがエリス。強いね。豊太郎との愛を貫くために、母を棄てるつもりだ。母とはどんな風に争ったんだろう。」
「エリスが豊太郎について日本に行くと言う。すると、当然、母はもちろん反対する。「とんでもない。あたしはどうなるんだい。あんた無しでどうやって生きていけばいいのさ。」エリスは言い返す。「あたしにとって、大切なのはお母さんじゃなくて豊太郎さんなの。お母さんも連れて行きたいけど、それは無理。わかってよ。」こんな感じかな?」
「エリスの母も、さすがに親だから最後には娘の幸せを願って、身に引いたんだろうね。エリスの決意の強さに負けたってこともあるけど。」
「愛は強いね。エリスは、愛のためなら、母も国も棄てることができる。こんな思いにちょっと憧れるわ。」
エリスは愛に生きる女だ。何か一つを選択しなければならない状況に追い込まれた時、自分にとって何が一番大切なのかを見極めることができる。それが豊太郎への愛だ。エリスが信じているのは、信じたいのは、豊太郎ただ一人なのだ。他には何も求めない。豊太郎を失うくらいなら、何があっても意味が無いからだ。エリスは、母を疾うに乗り越えている。既に自分一人で生きている。豊太郎とは対照的に描かれている。

コメント

  1. すいわ より:

    エリスの豊太郎に対する思いが堰を切ったように溢れています。身一つならロシアまで駆け付けんばかり。母を乗り越えた一人でなく、お腹の子と二人、独立した「家族」の母として豊太郎への愛が増していますね。段々大きくなるお腹と相まって不安が膨らみ一層執着心も強くなっている。幸せな気持ちが広がらないのが悲しい、単なるマタニティブルーではなさそうです。
    ここまで強く求められる、自分の母から以上の愛に豊太郎は困惑するばかりなのでしょう。自分の中にある母に対する従属的な愛以外の形を知らないだろうし、順風満帆な今の自分にエリスは不可欠な存在ではなくなってきている。でも、子供が生まれるとなったら、、どうする、豊太郎。

    • 山川 信一 より:

      女性が男性を見る基準は父親によって作られます。エリスの豊太郎への思いにもそれは現れています。その一つが愛する人を失うことへの不安です。エリスは愛する父親を失いました。それと共に貧乏と貞操の危機に直面しました。
      恐らく、それがトラウマになっているのでしょう。自分は幸せを奪われる運命にあるのだと思い込んでしまいます。また、同じことが起きるのではないかと。しかも、エリスは、ロマンチックな思考をしますから、自分を悲劇のヒロインに擬えています。
      それでも、エリスはその不安と妊娠よる鬱の中で一人必死に闘っています。その健気さいじらしさには、胸を打たれます。
      豊太郎にも、エリスの気持ちがわかったはずです。その優しさがあります。しかし、わかっていながら、直ちに手を差し伸べてあげられないのです。母によって育てられた名誉を重んじる自分もいるからです。これは、妻と母の闘いでもあります。

  2. らん より:

    先生、そういうことなのですね。
    これは、母と妻との闘いなのですね。

    エリスが欲しいのは豊太郎だけです。必死な気持ちが伝わってきました。
    でも豊太郎はエリスと子供との未来より、煌びやかな世界で役に立っている自分の未来のほうがいいですよね、きっと。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎は自分が満足できる人生を送りたいと思っています。もちろん誰しもそうですが・・・。
      この時、華やかな舞台で活躍する自分に満足を覚えていたことは確かです。それに対して、エリスとの貧しい暮らしは既にそうではないことがわかっています。
      しかし、だからと言って、エリスを棄てられるほどの非情さはありません。エリスを不幸にしてまで、名誉を手に入れても満足できるとは思っていません。
      だから、苦しむのです。

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