偽りなき我心を厚く信じたれば

 此日は飜訳の代《しろ》に、旅費さへ添へて賜《たま》はりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでの費《つひえ》をば支へつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性《さが》なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我心を厚く信じたれば。

「翻訳代と旅費をもらう。翻訳代は、不在の間の生活費に充てる。その期間がどれくらいかはわからないけど、結構な額なんだろう。官と民との違いがわかるね。ついに、エリスの妊娠が発覚した。「貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。」からどんなことがわかる?」
「他人事のように言よね。あまりに素っ気ない言い方だ。冷たいなあ。まだ事態がわかっていないんじゃない。」
「エリスは、体調が悪くて長く休んでいたので、除籍になってしまった。一月ほどなのにあまりの厳しいのは、理由があるからなのだろうと言うけど、どんな理由?」
「座頭には、以前言うことを聞かなかったことへの恨みがあったからだよ。」
「劇場を首になって収入が減るので、一層不安が募ったろうね。」
「ただ、豊太郎が大臣に取り立てられているので、それほどではなかったんじゃない。翻訳代も新聞社の給料よりはずっといいはずだから。」
「豊太郎がしばらく家を空けることにそれほど辛そうではなかったのは、エリスが豊太郎を全面的に信頼しているからだと言う。それについて、豊太郎はどう思っているんだろう。」
「いくらか後ろめたさは感じつつも、ロシア行きのことで頭がいっぱいだったんだよ。だから、あまり気にしていない。」
 豊太郎は、自分の能力が発揮できることが心地いいのだろう。しかも、それは誰かの役に立っている。豊太郎は、学問が好きという面を除けば、他律的な人間だ。自分を必要としてくれる者のために働くというのが基本的なスタイルだ。
 エリスも自分を必要としている。だから、それに応えなければならない。しかし、それ以上に大臣は自分を必要としている。だから、そっちを優先してしまうのだ。ずっと自分を生かせるし、やり甲斐があるから。

コメント

  1. すいわ より:

    エリスの懐妊が動かし難い事実となり、劇場を首になった。処分が厳しいと(それは以前、エリスが座頭に刃向かったからだろうと)豊太郎は言うけれど、看板女優が結婚もせずに妊娠したとなれば商品としてのエリスの価値は失われ、失職も免れない、豊太郎と同様、スキャンダルによる失職、ですよね。自分のせいにしたくない。貧血症のせいで幾月か(月のものが無くても)気付かなかったのだろう、いえいえ、エリスは不安を漏らしていたはず、その時医者に診てもらうよう言わなかったのは、自分が父となる事を受け入れ難かったからでしょう。父の自覚なんて確かに持てないでしょう。女の人と違って、自分自身に変化がある訳ではないのですから。それとは反対にエリスは豊太郎との間に切り難い絆である子供を手に入れた事で、旅立つ彼を見送る気持ちにゆとりが出来たのでは。豊太郎を心の底から信じて悩まずに送り出した訳ではないと思います。

    • 山川 信一 より:

      エリスの解任の理由ですが、スキャンダルの可能性は否定できません。しかし、当時のドイツの事情を現代の日本の感覚で判断するのは少しためらわれます。それに、エリスは座頭には妊娠を告げていないでしょう。
      エリス自身も豊太郎も、既にエリスが妊娠しているのではないかと疑っていました。それを今さら「貧血の性なりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。」などと言う方がおかしいのです。貧血の性であってほしい、妊娠ではないと願っていた証です。
      男はどうやって父になっていくのでしょう。体に変化がない分、その自覚は持ちにくいでしょうね。ともかくこの時点で、豊太郎にその自覚は皆無です。だから、鷗外は立派な父になろうとしたのかもしれません。
      おっしゃるように、エリスは子どもが出来て、豊太郎との絆を手に入れたように感じているのでしょう。だから、気持ちに余裕が生まれ、別離に不安をそれほど感じなかったのです。
      しかし、それを「偽りなき我心を厚く信じたれば」と捉えたことに、豊太郎の罪悪感が表れています。

  2. らん より:

    ロシア行きで頭がいっぱいで、エリスのことまで頭が回ってないので、
    まだあまり罪悪感はないのかなあと思いました。
    でも、現実味を帯びてきたらたら、自分はエリスよりも大臣のために自分は有効だと。
    そう割り切って、行ってしまうのかなあ。
    きっと相澤もそう考えているのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎は、嫌なことは考えたくない、見たくないのでしょう。だから、エリスの妊娠から目を逸らして、当面の仕事に没頭しようとするのです。
      人にはこういう心理があります。忙しさを口実にして、やりたくないことから逃げるのです。
      その意味で、豊太郎にとってロシア行きは好都合だったに違いありません。エリスとの現実から逃げられるからです。

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