故郷よりの文なりや

 今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。エリスは床に臥《ふ》すほどにはあらねど、小《ちさ》き鉄炉の畔《ほとり》に椅子さし寄せて言葉寡《すくな》し。この時戸口に人の声して、程なく庖厨《はうちゆう》にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西《プロシヤ》のものにて、消印には伯林《ベルリン》とあり。訝《いぶか》りつゝも披《ひら》きて読めば、とみの事にて預《あらかじ》め知らするに由なかりしが、昨夜《よべ》こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。伯の汝《なんぢ》を見まほしとのたまふに疾《と》く来よ。汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣《や》るとなり。読み畢《をは》りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便《たより》にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にこゝに来てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」

「「今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。」あるけど、ここからどういうことがわかる?」
「日曜日には仕事がないんだね。新聞が休みだからなんだろう。その分、家で好きな学問ができるはず。なのに楽しくない。それは、エリスの妊娠を気にしているからだ。」
「エリスは、床に伏すほどではないけれど、小さな暖炉の傍に椅子を引き寄せて言葉が少ない。元気がないのはつわりがひどいからだね。エリスは何を思っているんだろう?」
「エリスは妊娠したことに後悔はしていない。だって、愛する人の子を身ごもったんだから。でも、豊太郎がそれを喜んでくれないのが気になる。豊太郎の自分への愛に不安を抱いている。」
「その時戸口に人の声がして、程なく台所にいたエリスの母は、郵便の書状を持って来て豊太郎に渡した。見ると見覚えある相沢の筆跡で、郵便切手はプロシアのもので、消印はベルリンとある。いぶかしく思いながら開いて読めば、急のことで予め知らせる手段が無かった、昨夜ここにお着きになった天方大臣に付いて自分も来た、大臣が君に会いたいとおっしゃるので、直ぐに来なさい、君の名誉を回復するのもこの時に違いない、心が急いて、用件だけを書き送るとあった。読み終わり茫然とした顔をしている豊太郎を見て、エリスは言う。「日本からの手紙なの?悪い知らせではまさかないわよね。」と。エリスは勤めている新聞社の給料に関する手紙と思ったのだろう。「いいや、心配には及ばない。君も名前は知っている相沢が、大臣と共に日本からここに来て僕を呼んでいるんだ。急ぐに来いと言うので、今から出かけることにする。」と応える。急展開だね。物語が動き始める。天方伯はなぜ豊太郎に会いたいと言うのだろう。」
「相沢が仕組んだんだね。豊太郎の優秀さを語って、いずれ役に立つ男だから会って損は無いと説いたんだろう。」
「相沢は何でそんなことをするの?」
「相沢は、豊太郎のような優れた人材をこのままにしておくのは惜しいと思っている。だから、理由は二つある。一つには友情から。と言っても、相沢が考える友情は、豊太郎に恩を売っておけば、後でそれに報いてもらえるというものだけどね。もう一つは自分の手柄にしたいから。大臣に紹介すれば、きっと大臣の役に立って、喜んでもらえるからね。」
「相沢はいいヤツではあるけど計算高いね。」
「豊太郎はそれをどう受け止めている?」
「嬉しいには違いないけれど、突然のことで戸惑っている。頼りにしていいのか、にわかに信じられない。」
「エリスは?」
「相沢は、今の職を紹介してくれた友人だから、またきっといいことがあると期待している。しかも、大臣に会うとなれば、元の職に復帰できるかもしれないと期待している。」
 エリスは、豊太郎が妊娠を喜んでいないことに不安を抱いている。豊太郎は果たして自分を愛しているのだろうかと。妊娠による経済的な不安もある。そんな折りに、相沢からの手紙が来る。もしや、新聞社を首になるのではないかと不安が募る。相沢からの手紙であることを知り、ほっとする。しかも、大臣に会うと言う。密かに、そのことで未来が開かれることを期待する。
 豊太郎の気持ちは複雑だ。何かが自分の知らないところで動き出しているのを感じる。重要なことはいつもそうだった。自分はいつもそれに翻弄されてきた。今度もそうだろうかと不安になっている。期待はある。しかし、裏切られるかもしれない。疑心暗鬼になっている。

コメント

  1. すいわ より:

    豊太郎にとってはチャンス到来なのでしょう。でも、役人の世界でのイザコザを経験し、痛い目にあった事を思うと、また使い勝手の良い駒にされ、意に沿わなくなれば切り捨てられるやもしれない。それでも目の前に垂らされた一条の糸に縋れば今の暮らしから抜け出せる。目の前の問題から逃れられる、、と書いてみて改めてエリスへの気持ちがないなぁと思いました。身重のエリス、自分自身の事だけでなく不安が募るばかりですね。

    • 山川 信一 より:

      らんさんへのお返事でも書いたように、エリートとかインテリとか称される人たちの欠点は、自尊心が強すぎることです。あの李徴もそうでした。妻子の衣食よりも己の名誉(詩業ではありません!)の方を気に掛けていました。
      彼らは、誰かと共に生きていくことが苦手なのです。しかし、功利的に生きることはかろうじてできます。利を基準に考えるのです。あの相沢のように。しかし、愛は功利的には扱えません。扱えないのが愛なのですから。
      とすれば、愛することが何より不向きなのでしょう。

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