我学問は荒みぬ

 我学問は荒《すさ》みぬ。屋根裏の一燈微に燃えて、エリスが劇場よりかへりて、椅《いす》に寄りて縫ものなどする側の机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔しの法令条目の枯葉を紙上に掻寄《かきよ》せしとは殊にて、今は活溌々たる政界の運動、文学美術に係る新現象の批評など、彼此と結びあはせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりは寧ろハイネを学びて思を構へ、様々の文《ふみ》を作りし中にも、引続きて維廉《ヰルヘルム》一世と仏得力《フレデリツク》三世との崩殂《ほうそ》ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退如何《いかん》などの事に就ては、故《ことさ》らに詳《つまびら》かなる報告をなしき。さればこの頃よりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書を繙《ひもと》き、旧業をたづぬることも難く、大学の籍はまだ刪《けづ》られねど、謝金を収むることの難ければ、唯だ一つにしたる講筵だに往きて聴くことは稀なりき。

「ここには、夜の営みが書かれている。それに先だって、豊太郎は、自分の学問はすっかり荒れてしまったと嘆いている。屋根裏部屋の乏しい光の中で、エリスは劇場から帰って、椅子に座って縫い物などをしている。舞台の衣裳の繕いかな。疲れているだろうに寝ないのは、豊太郎に合わせているんだろう。その傍で豊太郎は新聞の原稿を書いている。これは昔の役人時代の、死んだような仕事は全く違う。かつての仕事は、法令条目の切れ端を机の上でコピー・アンド・ペーストして、辻褄を合わせるような形だけのものだった。それが今は、生気に溢れた政界の運動、文学美術に関わる新現象の批評など、あれこれと結び合わせて、力の及ぶ限り、ビヨルネよりはむしろハイネの姿勢に学んで構想を練り、様々な記事を書いた。その中でも、引き続いて、ヴィルヘルム一世とフレデリツク三世が続いて亡くなり、その後の新帝の即位、ビスマルク候の進退云々については、殊更詳しく報告をまとめた。そのため、この頃は思ったよりも忙しくて、多くもない蔵書を読み、以前の学問を続けることが難しく、大学の籍はそのままにしておいたけれど、月謝を収めることが難しいので、ただ一つにした講義さえ行って聞くことは希だった。さて、ここからどんなことがわかる?」
「昔の仕事と今の仕事を対照している。昔の仕事を「枯葉」にたとえている。これは、昔の仕事が死んだ仕事だったと批判しているからだ。今の仕事をすることでそれがわかったんだ。」
「比較できるものを経験するって大事だよね。それしか知らないと、やっていることの本当の姿が見えてこないから。」
「「ビヨルネよりは寧ろハイネを学びて思を構へ」ってどういうこと?」
「調べると、ビヨルネは、ドイツの作家で官憲の弾圧を逃れ、パリで政府批判を展開したとある。ハイネは、ドイツの詩人・評論家で、同じくパリに逃れ、諷刺的な時局批判を行なったとある。違いがよくわからないけど、ハイネの作風をまねして、風刺風に書いたってことじゃない?」
「豊太郎は、学問が疎かになったことを嘆いているよね。勉強したいんだね。学問が豊太郎の心の拠り所なんだ。」
 豊太郎は役所の仕事を批判している。つまらない死んだような仕事だと言っている。役人たちは他の仕事を知らないので、その仕事の価値をを疑うこともないと言うのだ。以前、友達がアテネフランセという塾でフランス語を習っていた。そこの生徒は世代を超えていて、仲間になる内に、普段の学校でやっていることが違って見えてきたと言っていた。違う社会を知るのは大事なことだ。しかし、豊太郎は今の仕事に意義を感じながらも、思うように学問ができないことを嘆いている。ドイツに来て自分の本当の好き嫌いがわかり、好きな学問に賭けようとさえ思っていた。それが歴史文学だった。しかも、役所を首になった現在、学問をするしか自分らしさを保てない。なのに、それができないだから辛いのだろう。
 これはエリスには想像もつかない境地だろう。もちろん豊太郎から説明するはずもない。豊太郎はエリスと真にわかり合おうともわかり合えるとは思っていない。

コメント

  1. らん より:

    豊太郎、葛藤してますね。
    仕事は忙しいながらも楽しそうなのですが、お金もなくて、大好きな勉強が思うようにできません。勉強をしている時の自分が一番生きてると感じられるのでしょうね。
    今、辛いんだろうなあ。
    エリスより勉強のほうをとるんだろうなあ。
    エリスとは価値観が違うんだろうなあ。

    • 山川 信一 より:

      一緒に暮らしていても、豊太郎とエリスとでは考えていることが懸け離れています。
      エリスに豊太郎が書いた記事はどれほど理解できないでしょう。政界のことなど、関心を持っていないに違いありません。
      豊太郎には、その教養のギャップを埋めるつもりは無さそうです。

  2. すいわ より:

    自分の力で手に入れた豊太郎との生活。どんなに疲れていても二人で過ごせる時間を大切にして満ち足りているであろうエリスに対し、生きていく厳しさに初めて晒されて、思うように学べない事を悔やんでいる豊太郎。結局のところ彼は優秀故に与えられてきた環境を手放し難いのですね。優秀な自分にこそ価値がある、それが損なわれたら存在価値を失う、と。生活を支えてもらっておきながら、いつまでも対等な立場にエリスを置こうとしない。学のないエリスに話したところで自分の気持ちはわかるまい、、それならばエリスに対する気持ちは何なのでしょう?寄り添うのでなく、ただ寄り掛かるだけの関係。そうなると「美しいエリスに愛されている自分」が好きなだけで、エリスの愛とはかけ離れて行きますね。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎は、自分を愛してくれるからエリス好きなのです。言い換えれば、おっしゃるように「美しいエリスに愛されている自分が好き」なのです。
      二人の関心事や教養の違いを示すことで、互いへの思いの違いを際立てています。

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