遂に離れ難き中となりし

 嗚呼、委《くはし》くこゝに写さんも要なけれど、余が彼を愛《め》づる心の俄《にはか》に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我身の大事は前に横《よこたは》りて、洵《まこと》に危急存亡の秋《とき》なるに、この行《おこなひ》ありしをあやしみ、又た誹《そし》る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇《さくき》を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢《びん》の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何《いか》にせむ。

「これは豊太郎がエリスと深い仲になったことへの弁明だね。詳しくその事情を書く必要もないけれどと言いつつも、そのいきさつを書いている。進んで書きたいことではなけれど、書かない訳にはいかないからね。この時、豊太郎は二重のショックを受けている。免官と母の死だ。急にエリスがを愛する心が強くなり、ついに離れがたい仲になってしまった。ここで「ついに」と言うのはなぜ?どんなことがわかる?」
「ついにと言うのは、これまでにもそういう誘惑があったということだね。これは恐らくエリスからの誘いだね。エリスには、既にそういう心が芽生えていた。でも、豊太郎は意志の力でそれに応じなかったんだ。」
「免官によって帰国を迫られている、生き残れるかどうかの危機的状況なのに女との情事に耽るのを不思議に思い、また非難する人もいるだろうけれど、自分がエリスを愛する気持ちは、初めて会った時から浅くはなかった上に、自分の不幸を憐れみ、また別れを悲しんで伏せた顔に髪の毛がとけかかっている、その美しさ、いじらしい姿は、自分の耐えられぬほどの悲しみによって尋常ではない脳を射て、恍惚の状態の中で結ばれてしまったのをどうしよう、どうにも抵抗することができなかった。
 これが豊太郎の言い分だけど、これについてどう思う?」
「豊太郎は、それまでもエリスと結ばれたいと思わないわけではなかった。でも、そうしてはいけないと思っていたんだ。多分、恐らく道徳心から深い仲になるべきではないと考えていた。あるいは、単に怖かったのかもしれない。ところが、豊太郎は、免官のショックと母の死で心にぽっかり穴が開いてしまった。その穴を埋めるように、エリスが入ってきた。これには、さすがの豊太郎でも逆らえなかった。」
「豊太郎はそうしてしまったことに同情してほしいのかな?あるいは、許しを請おうとしているのかな?」
「それはないんじゃない。あくまでも、その時の事情を述べているんだ。その評価は読み手に任されている。で、どう思う?」
「う~ん、これじゃ、男なら抵抗できないでしょ。」
「エリスは、どう思っていたんだろう?」
「エリスは、既に豊太郎に好意以上の思いを抱いていた。それが免官の上、母まで亡くなったことを聞いて、このままでは別れることになることを恐れる。その悲しみによって、豊太郎への恋心は一気に燃え上がる。どんなことをしてでも、豊太郎と離れたくないと願う。自分の愛の力で、つまり自分の美貌で、豊太郎を引き止めようとする。それがエリスの心からの願いだった。」
 悲劇とは、どうやっても逆らうことができない状況を言う。その意味でこの状況は悲劇だ。誰がこの状況に逆らうことができるだろう。そういう状況を作り出すのが悲劇なのだ。鷗外は悲劇を書こうとしている。エリスが豊太郎を別れたくない理由の中には、もし別れたら母の言いなりになるかもしれないという恐れも有ったのでは無いか。エリスの豊太郎への愛は本物なのか?

コメント

  1. すいわ より:

    単に庇護する対象でなく、対等に自分と向き合ってもらいたい。全てを失った今なら、自分を必要としてくれる、エリスはそう思ったでしょう。家族(母)に囚われることなく自分の為の人生を手に入れようとする。かたや、母という支柱を失った豊太郎、まるで迷子の少年、弱り果てエリスの歯車の勢いに流されてしまう。
    エリスの父が亡くならなかったら、豊太郎の母が亡くならなかったら。小さなピースのどれが欠けても、ここには辿りつかない。そもそも、あの路地で2人が出会った時から運命の歯車は回り始めてしまった。立ち止まりたくてもエリスが動けば自ずと自分も動かざるを得ない。でも、本当に立ち止まりたいのか?母の支配から逃れる事だけが目的なら全てを失った豊太郎を選ばなくてもいいはず、豊太郎と共にありたいと願うなら、それは愛なのでしょう。その先に待ち受けるものが何であろうと。

    • 山川 信一 より:

      ここは、エリスの主体性、豊太郎の受動性が対照的に描かれています。エリスは自分の思い通りに行動しています。
      その原理が母からの自立であろうと豊太郎への愛であろうと(恐らくその両方だったでしょう。)、自分の意志どおりの行動です。
      それに対して、豊太郎は状況にただ流されているだけです。意志が感じられません。母から自立できていないからでしょう。まだ精神的に大人になっていないのです。

  2. らん より:

    これは悲劇ですね。

    今は最高に美しい時間ですが、帰国が目前に迫っていて、どうしたらいいかわからないです。
    ①エリスも日本に連れて行っちゃう
    ②後からエリスが日本にくる
    ③一旦帰国し後から豊太郎がエリスを迎えにくる
    ④上記は経済的に無理だから別れる
    それ以外に何かいい案はないでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      恐らくこの時、豊太郎にはエリスのことを考える余裕など無かったに違いありません。
      ただただ自分の前途に途方に暮れていました。加えて、母を失った悲しみでいっぱいでした。
      何でもいいからすがりつきたい気持ちだったと思われます。
      そこにエリスがいたのです。豊太郎のために泣いてくれたのです。

  3. らん より:

    そういうことですね。
    エリスは豊太郎と離れたくないから、どうしたらよいかいっぱい考えていたと思うのですが。
    豊太郎は、免官になっちゃったし、お母さんも失くしてしまって、自分のことで精一杯で、とてもエリスのことなど考える余裕はないですね。
    エリスがかわいそう。
    2人の想いは、ずれてますね。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎とエリスとでは最初から思いがズレています。
      この時点なら、エリスは真っ先にどうしたら豊太郎と別れないで済むかを考えています。
      しかし、豊太郎はエリスのことなど考える余裕がありません。
      ただただ何かにすがりつきたいと思っていました。その心にエリスがすーっと入ってきたのです。

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