我がまたなく慕ふ母の死

 その名を斥《さ》さんは憚《はゞかり》あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡ゞ《しば/\》芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許《もと》に報じつ。さらぬだに余が頗《すこぶ》る学問の岐路《きろ》に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に謂《い》ひしは、御身《おんみ》若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて尤《もつと》も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某《なにがし》が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書《ふみ》なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運《はこび》を妨ぐればなり。

「その名をはっきり指摘するには差し障りがあるけれど、同郷人の中に、もめ事を好む人がいて、豊太郎がしばしば芝居に出入りして、そこの女優と交際していると、上役の下に報告した。ゴシップやスキャンダルが好きな人っているよね。いつも噂話をしていたり・・・。このタイプの人にとっては、待ってましたってところだよね。それに、留学生仲間は豊太郎を妬んでいたからね。「遊びにはやり方があるんだよ。こんなにおおっぴらにやってはいけない。」というのが彼らのルールであり、言い訳なんだろうね。しかも、上役は豊太郎が学問の道にはまるのを憎んでいた。そこで、上役はことの次第を公使館に伝えて、豊太郎を解雇してしまった。公使がこの命令を豊太郎に伝える時に言ったことは、もしこのまま直ぐに日本に帰れば、旅費は出すけれど、もしこの地に残るなら、公の助けを仰ぐことはできないということだった。豊太郎が一週間の猶予をもらって、思い悩んでいる時に、生涯で最も悲しみを覚えた二通の手紙を受け取る。この二通はほとんど同時に出されたものだった。一通は母の自筆で、もう一通は親族のなにがしが母の死を、豊太郎がこの上なく慕う母の死を知らせた手紙だった。豊太郎は、母の手紙の言葉を反復するのに耐えられない、それは涙が迫ってきて筆の運びを妨げるからだと言う。今でも悲しんでいるんだから、尋常のものではないことがわかる。
 どうも、豊太郎のお母さんはこの手紙を書いた直後に亡くなったようだ。その死因は何だったんだろう?」
「恐らく豊太郎が免官になったニュースは、電信で送られたから直ぐに官報に載ったはず。だから、母がほどなくそれを程なく知る可能性はある。しかし、この手紙がそれを知った上で書かれたのかと言えば、そうは思えない。なぜなら、この時代、個人の手紙がヨーロッパに一週間やそこらで届くとは思えないから。航空便は一般的ではなかったから、船便だろう。ならば、かなりの日数が掛かる。そう考えると、母は何らかの理由で、恐らく病気になって、自分の死を意識したんじゃないかな?すると、これは多分遺書だろう。」
「何が書いてあったと思う。」
「それは詳しくはわかないけれど、自分が亡くなっても、豊太郎にはくれぐれも立派になってほしい。というような内容だったんじゃないかな?」
「だから、一層豊太郎は一層ショックを受けたんだよ。今の自分がそれに反しているからね。」
 豊太郎にとって、母は心の拠り所、心の支え、生きる意味だったのだろう。だから、「我生涯にて尤も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。」と言うのだ。遠く離れていても豊太郎は精神的には母と一体で生きてきたことがわかる。母がいてこその自分だった。なるほど、母は豊太郎の免官を知らずに亡くなった。それ自体は母を悲しませなかった。しかし、今の豊太郎が母を悲しませるような状況に陥っていることは変わりはない。母に合わす顔がない。こうなってしまったことを悔やんでいる。一体自分はどこで間違ってしまったんだろうかと。しかも、母の死によって心にぽっかり穴が開いてしまった。どう生きていったらいいのかわからない。豊太郎は、心の空隙をこれからどう埋めるのだろう。エリスにはそれが埋められるのかな?

コメント

  1. すいわ より:

    浮世の荒波を渡るには豊太郎、世間知らず過ぎたのですね。可哀想ですね。自分の意のままに操れなくなった部下、仕事(稼ぎ)の足しになる学問ならまだしも、文学なんぞ(!)にかぶれて女にうつつを抜かして、いちいちゴタクを並べるようになった、お払い箱にしよう、と。留学生仲間は勉強は出来る、女にモテる、気に入らない、と。公使は公使で君、やってくれたね、君を高く買っていた私の立場がない。君も帝大出のエリートなんだから、ここでの事は無かったことにして日本に帰るなら助力もしよう。君は優秀だから日本に帰れば何とでもなるだろう?(私の手足として言いなりになってもらおうかな?)、、自我に目覚め、自分の意志に従って行動した結果がこんな事になった上に母の訃報が重なって、どれ程の絶望感に苛まれたことか。解雇が母に知れなかったのは豊太郎にとっては良かったけれど、母の遺言が豊太郎を縛る。籠の小鳥は森で囀り猛禽に捕らえられ、、エリスは豊太郎に守ってもらう側、幼い恋心は豊太郎を守る母の大きな愛には敵わないでしょう。もし、母が側にいたら、エリスを助けた事は褒めてくれても、交際は認めてくれなかったのではないか、と思います。家名大事、は外せなかったでしょうから。

    • 山川 信一 より:

      翆和さんのように、状況をより具体的に想像してみるのはとてもよい読み方です。きっとこれに近いやり取りがあったのでしょう。しかし、日本は昔から失敗を許さない社会。特に役人の社会はそうです。
      しかも、免官は豊太郎にとって人生初めての挫折です。どれほどショックだったでしょう。加えて、母の死ですから、精神的にひどいダメージを受けたに違いありません。
      エリスとのことは、母の教えに背く行為です。豊太郎はそれがわかっていてしていました。その結果がこれです。悔やんでも悔やみきれない思いでしょう。

  2. らん より:

    どの時代においても、人の才能に嫉妬する人はいますよね。
    豊太郎、いいことをしたのに、なんでこんなことになってしまったのでしょう。

    悲しいことになってしまいました。
    お母さんの希望に応えて生きてきたのに。
    これからどう生きていくのかなあ。
    エリスとはどうなるのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      ここは「人の才能に嫉妬」すると言うよりは、人を陥れて喜ぶ、今で言うワイドショーを好む心理に近いのではないでしょうか?
      また、上司は部下を思い通りに扱おうとします。気に食わなければ、意地悪をしたり、嫌がらせをしたりします。ただ、理由が無ければできません。
      豊太郎がスキャンダルを起こしたので、都合がよかったのでしょうね。
      ドラマにはきっかけが要ります。いよいよ二人のドラマが始まります。

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