嗚呼、何等の悪因ぞ

 嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我|僑居《けうきよ》に来《こ》し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日《ひねもす》兀坐《こつざ》する我読書の窻下《さうか》に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交《まじはり》漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了《そくれう》にも、余を以《も》て色を舞姫の群に漁《ぎよ》するものとしたり。われ等二人《ふたり》の間にはまだ痴騃《ちがい》なる歓楽のみ存したりしを。

「少女はそれ以来豊太郎の下宿に遊びに来るようになる。豊太郎は、まだ「少女」と言っている。そこから彼女の人格を認めていないことがわかる。「この恩を謝せんとて」とあるけれど、確かにそれっきりじゃ、恩知らずだよね。だから、人情として顔は出すのはわかる。でも、独身男性の下宿に少女が訪ねるのは、それなりの覚悟がいる。どこか豊太郎に惹かれるところがあったからだね。でも、なぜそれを「悪因」と言うんだろう。」
「それによって、よくないことが起こったからだよ。ここではそれを暗示して、何かな?」と思わせている。」
「豊太郎が今になって、これがすべての原因だったと悔やんでいることもわかるね。」
「ショウペンハウエルとシルレルってどういう人?」
「ショウペンハウエルは哲学者で、孤独について考えたことで有名。シルレルは詩人・劇作家。豊太郎は、哲学と文学を愛していたことがわかる。豊太郎は孤独を愛し、一日中、きちんと座って読書にいそしんでいた。それは、地味で味気ない生活と言えば言える。少女は、そんな生活をぱっと明るくしたんだ。」
「二人は段々と親しくなっていき、同郷の人にまで知られるようになった。それだから、少女が来るのを避けていたのにね。「彼等は速了にも、余を以て色を舞姫の群に漁するものとしたり。」ってどういうこと?」
「早合点して、豊太郎が踊り子を相手に色ごとに耽っていると思ったってことだね。」
「同郷の人は、なんでそう思ったの?」
「彼らもそれに近いことをしていたからだよ。ドイツ人の女との交わりは、お金を払ってする以外考えられないんだ。自由恋愛なんて思いもよらなかった。しかも、豊太郎を妬んでいたから、これで陥れてやろうと思ったんだろう。」
「二人の交際を「痴騃なる歓楽」というのはなぜ?」
「豊太郎がその時の二人の交際を愚かな喜びだったと振りかえっているからだよ。」
 豊太郎の心は、複雑だった。少女の美しさには惹かれてはいる。少女と交際するのは楽しかったに違いない。しかし、少女はあくまでも庇護の対象である。二人が対等の関係にあるとは思っていない。少女を一人前の人間だとは思っていないからだ。つまり、その人格を認めていない。だから、恋愛関係になることはできない。ただ、そうなることを望んでいないかと言えば、そんなこともない。
 一方エリスはどうか?エリスは、豊太郎を信頼している。他の男たちのように自分の体を求めない。その意味で希有な男だ。純粋に自分を守ってくれる。無償の愛を捧げてくれる。これは、父の愛に近い。エリスは豊太郎に父を見ていたのだろう。反面、男としての豊太郎を自分の思いでどうにでもできるという安心感(支配感?)も持っていた。

コメント

  1. すいわ より:

    ショウペンハウエルとシルレル。豊太郎と少女を象徴したよう。シーソーのあちらとこちらの重り、じっとしていれば水平を保っていられるけれど、どちらかが少しでも近づけばあっという間にバランスが崩れて片寄ってしまう不安定な状態にある事に豊太郎は気付けていなかった。それを今、船上で悔やんでいるのですね。あんなに注意を払って自分から直接でなく少女の手元にお金が届くように配慮したのに、何気に下宿の所番地と苗字を言ってしまっていましたね。少女のその後が気に掛かる事もあったろうけれど、これっきりで会う事もないと割り切っていた訳でもなかった。再会出来る糸口を残してしまった辺り、豊太郎も少女に全く関心がなかったわけではなかった。無邪気に足に纏わり付き慕ってくる仔犬を、しようのないやつだなぁと可愛がるくらいの気持ちで出入りを許してしまったのでしょう。バタフライエフェクト、ほんの小さなカケラが波紋となってやがて嵐になる。悪意はそんな二人を見逃さない。

    • 山川 信一 より:

      「ショウペンハウエルとシルレル。豊太郎と少女を象徴したよう。」なるほど、そんな見方もできますね。
      ただ、「シルレル」も豊太郎の側にあります。静的な観念の世界にいたい豊太郎にエリスは動的な現実を持ち込んだのです。「シルレル」の世界を現実にしてしまいました。
      けれど、それを嫌だとは思っていません。「一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交漸く繁くなりもて行き」からはそれを楽しんでいることが伺えます。
      エリスは豊太郎が連れ込んだのではなく、向こうから来てくれるのですから、言い訳もなり立ちます。
      しかし、豊太郎のエリスへの思いは、微妙です。本人でさえつかみ切れていません。「無邪気に足に纏わり付き慕ってくる仔犬」とまで割り切ってはいないでしょう。

      • すいわ  より:

        そうですね、エリスを救おうとした段階で豊太郎からも既に一歩踏み出しているのですよね。本人にその原因が掴めなくても心の揺れは起こっています。豊太郎もエリスも一人っ子ですよね?何だか人との距離の取り方が分かっていないところがあるような気がするのです。同僚と上手く行かないのもそうですが(これはたぶん、母の価値観が強くて、男社会の感覚に疎い)、豊太郎は母以外の異性と接する機会が極端に少なかった事で、エリスとの交流に快さは覚えているものの、それにどう応対したものか戸惑いを感じるのでしょう。
        エリス、豊太郎に無償の愛は感じても男として豊太郎を利用する狡猾さは持っていないように思えるのです。後先考えない思い付きの行動、計算が立つように思えません。男の人を魅了する容姿に見合わない幼さを感じさせてしまいます。およそ母娘とは思えない、エリスに対する母の仕打ちを見ると、継母なのかしら?エリスは父の連れ子?だとすると、エリスは父の愛を全身に受けて育ったのではないか?先生の仰るように豊太郎に対して父的愛情を求めているように思います。コヒが愛へと育つかは未知数ですが。与えるのが愛だとすると、あら?豊太郎の母も息子にこうあれと求め続けていますね。母にとって息子は「恋人」なのか、、

        • 山川 信一 より:

          『舞姫』は、母親が子どもの人生にどう関わっていくのかをテーマの一つにしています。ご指摘のように「同僚と上手く行かない」のは、「母の価値観が強くて、男社会の感覚に疎い」ことが理由として考えられます。
          エリスの母が継母だとは思えません。なぜならそれは重要な情報であり、それであれば書いてあるはずだからです。母は、エリスと父の仲のよさに嫉妬していたのかもしれません。ある意味で、母と娘はライバル関係にあります。
          母にとって息子が(最後の)恋人であるように、父にとっても娘が恋人です。それが息子や娘の人生にどう影を落としていくのか。『舞姫』がそれを十全に描ききっているとは思えませんが、考えるヒントは与えてくれます。

  2. らん より:

    今回は難しい言葉がたくさん出てきて意味がよくわからなかったけれど、解説で理解することができました。

    いったい何があったのでしょう。
    豊太郎はこのときのことを後悔してるみたいですね。

    • 山川 信一 より:

      『舞姫』は、昔の言葉で書かれていますから、読みにくいところはあります。しかし、鷗外は明晰に書いています。
      いい加減に誤魔化したところは全くありません。丁寧に読んでいけば必ずわかります。
      それがわかれば、極めて現代的で興味深い問題を扱っていることがわかります。

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