余は時計をはづして

 我が隠しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を凌《しの》ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来《こ》ん折には価を取らすべきに。」
 少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別《わかれ》のために出《いだ》したる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱き涙《なんだ》を我手の背《そびら》に濺《そゝ》ぎつ。

「「隠し」はポケット。二三「マルク」の銀貨の価値はよくわからないけれど、銀貨なんだから価値が低いわけじゃない。といって、大金でもない。そこで、時計を渡す。この時代だから、懐中時計だね。当時は高価なものだったんだろうね。今でも、ロレックスとかのブランドの腕時計は何百万円もするものもある。そのイメージで考えればいいんじゃないかな?それを質屋に持って行き、当座の金を引き出すように言う。その上で、質屋がそれを豊太郎のところに持ってくれば、お金を払って時計を取り戻すというんだ。」
「なんでそんなめんどくさいことをするの?」
「理由は、二つあるな。一つは、エリスを一刻も早く安心させたかったから。これは反面自分を信用してもらいたかったからでもある。もう一つは、エリスを自分の下宿に連れて行きたくなかったから。」
「それって、なぜ?」
「だって、その場で腕時計を外せば、すぐに救われたって思えるよね。本気度が伝わる。それに、下宿まで来いと言ったら、エリスに騙されるかもしれないと疑われる心配がある。しかも、下宿につれて行けば、ドイツ人から差別的な目で見られるかもしれない。また、知り合いの日本人からは、何を言われるかわからない。いずれにしても、この方法しかなかったんだ。」
 なるほど。とっさに冷静に判断しているね。さすがに頭がいい。しかも、この態度、結果的にはすごくかっこいいよね。少女の心にグッときたはずだ。だから、少女は、一瞬で豊太郎が好きになってしまったに違いない。一方、豊太郎は、エリスという名前を知っても、まだ少女と言っている。まだ心理的な壁を作っている。深く関わろうとは思っていないからだ。あくまでも庇護の対象と割り切ろうとしている。

コメント

  1. らん より:

    豊太郎はとてもいい人ですね。
    豊太郎、かっこいいです。
    私もグッときてしまいました。
    でも、この子を助けてあげたいという親切心。
    まだ庇護の状態で壁がありますね。

    • 山川 信一 より:

      一つの行動をめぐって、自分の思いと相手の思いとは必ずしも一致しません。
      思いもよらない効果を上げてしまうこともあります。逆もあります。
      男女の関係って、そんな面がありませんか?

  2. すいわ より:

    「時計を少女に預けて質に入れさせ、その質草を使いの者に豊太郎の下宿に届けさせ、、」何故こんな事をするのかと思っておりました。なる程、そういう事だったのですね。あくまでも見返りなど求めず少女を救う、でも、他人目線から見て、美しい少女と関わりを持っていると思われたくない。もし下宿近くであの同僚たちに2人でいるところを見とがめられたら「何だ、お高くとまっていい子ぶっていたくせに、お前だって俺たちと変わらないじゃないか」と下衆な勘ぐりをされかねない。疑惑を持たれるリスクを回避しつつ、一番効率よく彼女の力になれる方法。実にスマートですね。助けを乞う時はあれだけ雄弁だった少女が、ひとことの言葉さえ発する事なく、最上の感謝の意を伝える場面、美しいです。彼女の中で豊太郎は「金持ちの東洋人」から「頼りになる優しい親切な人」になったのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。言葉を発することができないくらい感謝していたのでしょう。
      言葉が感動を伝えることもあれば、黙ることが一層それを伝えることもあります。
      この場合、その落差がそれを伝えていますね。

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