余に詩人の筆なければ・・・

 今この処を過ぎんとするとき、鎖《とざ》したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女《をとめ》あるを見たり。年は十六七なるべし。被《かむ》りし巾《きれ》を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面《おもて》、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁《うれひ》を含める目《まみ》の、半ば露を宿せる長き睫毛《まつげ》に掩《おほ》はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。

「「今この処を過ぎんとするとき」の「今」は、歴史的現在だね。その場にいるように書いているんだ。これは、臨場感を出すためだね。閉ざした教会の門の扉に寄りかかって声を殺して泣く少女がいるのを見た。年は十六、七歳に違いない。昔は、数え年だから、今なら十五、六歳ってところかな。いずれにせよ、あたしたちぐらいの年。スカーフからはみ出した髪は金色で、着ている服は、垢がついて汚れているとも思えない。こざっぱりした服装をしていたんだ。豊太郎の足音に驚いて振りかえった顔は、自分には詩人の表現力がないのでこれを書き写すことができないと言う。これも、默説だね。この青く清らかに物問いたげに愁いを含んだ目が半ば涙をためた長い睫毛に覆われているのは、なぜ一目見ただけで、用心深い私の心を貫いたのか。自分の心を不思議に思っている。では、この默説は、どんな効果を上げている?」
「美しい少女との出会いの場面だね。その少女の美しさを表現するのに、最小限の表現しかしていない。具体的な表現を敢えて控えている。そのことでかえってその美しさを伝えようとしている。書かないことで、読者に想像させているんだ。」
 金髪で青い瞳、絵に描いたような西洋の美少女だったのだろう。豊太郎はドイツの女性を初めて見たわけではない。それなのに、一目でその美しさに心を奪われたのだから。
 普通人は、自分は自分のことがよくわかっている思っている。ところが、時に今まで知らなかった自分に出会うこともある。それがこのときの豊太郎だ。少女の美しさに心を奪われる。そんな自分に驚いている。

コメント

  1. らん より:

    豊太郎の心に稲妻が走った瞬間ですね。硬いイメージの豊太郎が青い瞳の少女に魅せられキョトンとしている姿を想像しました。
    いよいよ出てきましたね。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。ただ「稲妻」なら「キョトン」では弱い。「ズッキーン」でしょうか?
      刺激が強すぎたのは、確かです。

  2. すいわ より:

    「母親は二十年かかって息子を一人前にする。すると、他の女が20分で彼をバカにしてしまう。」という言葉を教えて頂きましたが、これまで一心不乱に学業に打ち込み、それ以外のことに心を傾けた事のなかったであろう豊太郎にとっては二十分どころか2秒もかからずに心奪われてしまったのでしょう。他の留学生たちが遊ぶ赤く白く化粧した女たちとは対照的な少女。ドイツ繋がりで「ファウスト」を思い出しました。

    • 山川 信一 より:

      まさにその瞬間でしたね。鷗外は「母親は二十年かかって息子を一人前にする。すると、他の女が20分で彼をバカにしてしまう。」の典型を意識して書いているみたいです。
      『ファウスト』も踏まえていたのかもしれませんね。
      母の育て方は、概ね正しいものでした。豊太郎のそれまでの生き方に非難すべき点はそうは見つかりません。それを「2秒」で壊されてしまいました。母の敵は「女」ですね。

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