政治家になるべき特科

 ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第に捗《はかど》り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻《いくまき》をかなしけむ。大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵《かうえん》に列《つらな》ることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。

「仕事は順調にこなしているみたい。「つひには幾巻をかをなしけむ」だからね。相当実績を残したようだね。豊太郎は有能な官吏だったんだ。
 出世に役立てようと思って、大学で政治学を学ぼうとしたけど、その思惑は外れたようね。政治学は、政治家になるための学問ではないことがわかる。そこで、少しでも役に立ちそうな法科の講義を取ったのね。豊太郎は、「模糊たる功名の念」から、将来政治家になることも視野に入れていたんだね。昔は、出世することを「末は学者か大臣か」と言ったからね。
「穉き心に思ひ計りしが如く」とあるけれど、豊太郎はなぜ、大学に「政治家になるべき特科のある」なんて、予想を立てたのかな?」
「豊太郎は、既に東京帝国大学を出ていたよね。その経験からそう思ったんだよ。つまり、当時の東京帝国大学は、役人になるための専門学校のような役割を果たしていた。だから、ドイツの大学もそうだろうと予想していたんだ。ところが、ドイツの大学はそうじゃなかった。純粋に学問の場だったんだ。」
 同じ大学でも、日本とドイツでは当時はずいぶん違っていた。ドイツでは、大学における学問がそれ自体独立して存在することが許されていた。しかし、日本では、学問は実用と結びついて始めて存在を許されていたんだ。これを「穉き心に思ひ計りしが如く」と皮肉っているんだ。
 でも、今はどうなんだろう?最近「文学部不要論」が言われている。学問に対する根本的な考えは、明治時代からそう変わっていないようだ。鷗外は、既にこうして日本の大学や学問のあり方を批判していた。「文学部不要論」は、鷗外のこの批判にどう答えるのかな?

コメント

  1. すいわ より:

    経世済民、世を経め民を済う、「経済」っていう言葉は元々産業構造の生産、消費、売買だけでなく、政治によってより良い世の中にするという意味も含まれていましたよね。それを思うと「政治」は極めて「人」寄りの、正解ありきの理屈でなんとか出来る事から最も遠い、複合的な知識と判断力を求められるもの。世を見ずに座学で、まるで車の運転免許を取るみたいに、はい、卒業したので政治家になれます、という単純なものではありませんよね。大きな権力にはそれ相応の責任も伴う訳ですし。
    「経済」から「民を済う」がすっかり脱落して沢山お金を稼ぐ事が評価の基準、文学はお金にならないから不要、という事ですか?人が人たる所以を全否定しているように思うのですが。

    • 山川 信一 より:

      鷗外が130年も前に提起した問題に答えようともせず、相変わらず低レベルの日本です。
      すべての基準を狭義の「経済」で計ろうとしています。
      とは言え、「文学部不要論」が出るほど、大学の文学部の先生方がだらけているのも事実です。問題はむしろそこです。

タイトルとURLをコピーしました