大道髪の如きウンテル、デン、リンデン

 余は模糊《もこ》たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽《たちま》ちこの欧羅巴《ヨオロツパ》の新大都の中央に立てり。何等《なんら》の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するときは、幽静なる境《さかひ》なるべく思はるれど、この大道髪《かみ》の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々《くみ/″\》の士女を見よ。胸張り肩聳《そび》えたる士官の、まだ維廉《ヰルヘルム》一世の街に臨める窻《まど》に倚《よ》り玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、妍《かほよ》き少女《をとめ》の巴里《パリー》まねびの粧《よそほひ》したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青《チヤン》の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる処《ところ》には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲《みなぎ》り落つる噴井《ふきゐ》の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交《か》はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多《あまた》の景物目睫《もくせふ》の間に聚《あつ》まりたれば、始めてこゝに来《こ》しものゝ応接に遑《いとま》なきも宜《うべ》なり。されど我胸には縦《たと》ひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮《さへぎ》り留めたりき。

「ここからは難しい語句だけ解説するね。「模糊たる功名の念」は、漠然とした出世欲のことだね。具体的にどうなりたいというんじゃなくて、取り敢えず名を上げたいという気持ち。李徴に限らず、秀才にはこう思う傾向があるみたい。自分に相応しい評価を得たいんだ。「検束に慣れたる勉強力」は自分の怠け心を抑えて勉強に励む力のこと。それがすっかり身についているんだ。「習慣とは第二の天性」と言うけれど、秀才と言われる人はたいてい努力を苦にしないんだ。その精神力こそ、天性だね。「欧羅巴の新大都」は、ベルリンのこと。「何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。」は、その輝くばかりの色艶に目を奪われてしまったということ。「ウンテル、デン、リンデン」は、ベルリンの大通りの名前で、日本語に訳すと「菩提樹下」になるんだけど、その語感からすれば、いかにもひっそりとした所であるらしく思われるけれど、全然違って大変な賑わいだったわけ。「大道髪の如き」と言うのは、大通りが髪の毛のように真っ直ぐに伸びてるってこと。
 その賑わいを列叙法で次々に列挙している。まず人から。幾組ものグループが歩いている。「士女」は男と女のこと。維廉一世が「街に臨める窓に倚りたまふ」は、彼が街路に面した宮殿に住んでいたと言うこと。それで、様々な飾りをつけた礼服の軍人が目に付くんだ。また、顔の美しい女性たちがパリの装いをしている。それがどれもこれも目を驚かさないものはない上に、車道はアスファルトで舗装してあって、その上を音を立てずに馬車が走る。雲に達すると思われるほどの高い建物が建ち並び、少し途切れたところには、晴れている空に夕立の音を立てる噴水の水があって、遠くを見ればブランデンブルグ門を隔てる緑の木々の中から半天に浮かび上がる凱旋塔の神女の像が見える。これらの沢山の景物が近くに集まっているので、始めてここに来た者が目移りして対応しきれないのも当然なんだって。豊太郎は極東の小国からの留学生だから、どんなにか驚いただろうね。だけど、たとえどんな土地で学んでも、空しい美観に心を動かすまいという誓いがあって、それが常に豊太郎を襲う外物を遮り留めたんだ。
 だんだん、豊太郎の人物像がわかってきたけど、この人物をどう思う?」
「豊太郎は、真面目な堅物。いわゆる優等生だよね。前の段落でやたらに「母」という語が出て来たけど、こういう人柄って、母親の影響が強いのかな?いかにもいい子ちゃんだよね。」
 確かに「母」という語が目に付く。誠先生が言っていたように、この小説のテーマの一つは「母」なんだね。

コメント

  1. すいわ より:

    見るもの全てが新しく魅惑的に映って心躍る異国の地。これ、という確固たる目的を持ってこの地に来た訳ではなく、漠然と出世の為のエリートコースへのレールに乗っていたらここへ辿り着いた、という感じ。街の煌めくような魅力には気付いているのに、よく流されないなぁと思いました。是が非でもこうなりたい、とか、これをしたい、という意志が感じられません。誰のための努力?自分のためでは無いのですね。よく飼い慣らされた息子、なるほど、いい子ちゃん、ですね。
    「大道髪の如き」、不思議な例え方だなぁと思っていたのですが、髪のように真っ直ぐにというのは一般的な表現なのですか?この表現、何だか母親の引いた出世一択の道のように思えてきてしまいました。

    • 山川 信一 より:

      エリートになるのは、音楽家になるのに似ています。幼い時から親が有無を言わせず鍛えなければならないからです。これには、是と非がありますね。
      「大道髪の如き」には、私も違和感を覚えました。しかし、直喩とは「一般的」ではないものを結びつけるたとえです。つまり、直喩には意外性が求められるのです。
      たとえであることは、「如き」「ような」「みたいな」によって保証されるので、何でも言えます。もちろん、そこには共感してもらえる発見や感動を与える詩があるべきでしょうが。
      そこが隠喩との違いです。隠喩は読み手にそれが比喩であることが伝わらなければ使えません。あまり意外なものは使えません。したがって、常識に頼らざるを得ません。
      そこで、「大道髪の如き」を見てみると、なるほど意外性があります。普通こんなたとえはしません。そこで、読者は考えます。「大道」と「髪」の共通点は何かと。
      そして、たとえばこう考えます。豊太郎(作者)は、立派な大通りが真っ直ぐ延びる様子に女性の髪の豊かさと美しさを感じたのではないか、極東からのお上りさんにはそれくらいしかたとえを思いつかなかったのではないかと。

      • すいわ より:

        直喩、なるほど、そういう事なのですね。アスファルト道路の濡れ髪のように黒い真っ直ぐさを思い浮かべたのですが、現地女性の美しさを讃美しながら、結局、美しさを例えるのに東洋人の黒髪、詰まる所、良いものの基準が母由来なのだなぁと思ったのです。

        • 山川 信一 より:

          はじめは、黒いアスファルトからの連想でしょう。
          美観にも母の影響があるというご指摘にはなるほどと思いました。

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