いで、その概略を文に綴りて見む

 嗚呼《あゝ》、ブリンヂイシイの港を出《い》でゝより、早や二十日《はつか》あまりを経ぬ。世の常ならば生面《せいめん》の客にさへ交《まじはり》を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習《ならひ》なるに、微恙《びやう》にことよせて房《へや》の裡《うち》にのみ籠《こも》りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨に頭《かしら》のみ悩ましたればなり。此《この》恨は初め一抹の雲の如く我《わが》心を掠《かす》めて、瑞西《スヰス》の山色をも見せず、伊太利《イタリア》の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭《いと》ひ、身をはかなみて、腸《はらわた》日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳《かげ》とのみなりたれど、文《ふみ》読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度《いくたび》となく我心を苦む。嗚呼、いかにしてか此恨を銷《せう》せむ。若《も》し外《ほか》の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は心地《こゝち》すが/\しくもなりなむ。これのみは余りに深く我心に彫《ゑ》りつけられたればさはあらじと思へど、今宵はあたりに人も無し、房奴《ばうど》の来て電気線の鍵を捩《ひね》るには猶程もあるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。

「文語文で読みにくいから、意味を辿ってみるね。「ブリンヂイシイの港」はイタリア半島南端の港。そこから、今いる「セイゴン」まで二十日以上もかかったんだ。船旅だからね。普通なら、初対面でも、同じ船に乗っている者同士は交流して、旅の辛さなどを慰め合うのが船旅の習慣だけど、ちょっとした病気だと称して個室の中に閉じこもって、同行の人と話をするのも少ないのは、人知れぬ悔恨に頭を悩ましていたばかりだからだ。この悔恨は、初めはひとひらの薄い雲のように私の心をかすめて、スイスの山の景色も見る気にさせず、イタリアの遺跡も心に留めさせず、中頃は、世を嫌い、身を空しいと思い、腸が毎日九度回るほどの苦しみを自分に負わせ、今は、心の奥にしこりとなって、一点の影ほどになったけれど、書物を読む度に、物を見る度に、鏡に映る姿、声に応じる響きのように、限りない昔を忍ぶ気持ちを呼び起こして、幾度となく私の心を苦しめる。ああ、どうやってこの悔恨を消し去ろう。もし、他のことであれば、詩に詠じたり歌に詠んだりしたあとは、心地が清々しくなるに違いなかろう。これだけは、あまりに深く私の心に彫りつけられたので、そうはいくまいと思うけれど、今夜は辺りに人もいないし、ボーイが来て、電灯のスイッチを切るにはまだ時間がありそうなので、さあ、その概略を文に綴ってみよう。
 大体こんな意味かな。つまり、ここまでは、長い前置きだったんだ。この文章を書く目的が述べられている。主人公は、人知れず悩みを持っていてそれに苦しんでいる。だから、この苦しみから逃れたいと思っている。そこで、期待は持てないまでも、このことを文章にして、それを試みると言っているんだ。つまり、ここから本編が始まるわけ。それにしても、気を持たせるよね。これでもかというくらい辛い思いをしたことを繰り返し述べている。それによって、読者に期待を持たせているよね。一体何をしたんだろうね。」
「ここで使われているレトリックはなんですか?」
「列叙法かな。「初めは」「中頃は」「今は」と「恨」を三つに分けて並べて述べているから。」
「「恨」は、小さくはなってきているんだけど、終いにはしこりみたいになって消えることはないんだね。その過程がよくわかる。」
 ここまでは、この文章が書かれたいきさつが語られる。それはこの作品を読むための予備知識であり、読者の興味関心を煽るものになっている。巧みな導入だ。

コメント

  1. らん より:

    すごく長い前置きでした。
    いよいよお話が始まるのですね。
    いったいこの方は何に悩んで苦しんでるのでしょう。
    早く読みたいです。
    読者を期待させるすばらしい小説の書き方ですね。

    • 山川 信一 より:

      長い前置きの意味については、まだ理由がありそうです。
      もしわかったら、教えてください。
      楽しみに読んでいきましょうね。

    • 山川 信一 より:

      この小説は、文語体ですが、構成がしっかりしています。昔ながらの古文ではありません。
      近代的な小説を書こうとする作者の意欲が伝わってきます。

  2. すいわ より:

    主人公は人生始まって以来、初めて大きな苦悩に苛まれているのですね。エリートコースを歩み概ね順風満帆な人生を歩んで来た。でも、それまで詩歌など詠めば憂さを晴らせる程度の悩みしか経験していない?人との関わりが薄いのか、関心がないのか、余程自己中心的な人物なのか?行きの航路での朗らかさを見る限り元から厭世的な人物だったようには見えないし。苦悩の種は心に潜んで根を張って、芽を出して彼を飲み込みそうです。作者、勿体ぶって盛り上げて来ますね。これから語られる事の顛末に否応なしに注目させられます。

    • 山川 信一 より:

      作者は、これから述べることが軽く扱われることを恐れているのかもしれません。そこで、これがいかに自分を苦しめているのかを繰り返し述べることで、そうさせないように配慮していくのでしょう。
      その意味では、文語体の効果に重なります。主人公の人物像については、これから詳しく述べられます。そこでゆっくり検討しましょう。

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