今の我は昔の我ならず

 げに東《ひんがし》に還《かへ》る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそ猶《なほ》心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰《たれ》にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。

「この段落も前回の続き。東は日本で、西はヨーロッパ。今の自分は昔の自分ではない、すっかり変わってしまったと言うんだ。ただ学問は今でも満足できないところも多いけれど、世間の辛く苦しいことは知った、人の心が頼りにならないことは言うまでもなく、自分と自分の心までも変わりやすいことも悟り得たとも言う。この人は、学問へのこだわりが強いんだね。まだ満足できるレベルにないと言っている。でも、人生勉強はして、それなりの経験を積んだと言っている。洋行先で辛い経験をしたことを暗示しているね。昨日は正しいと思ってことは今日は間違っていると思う、そんな私の瞬間の感触を文章にして見せるに値しない。これが日記が書けない理由かと言うと、そうではない。別に理由があるのだと言う。「あらず、これには別に故あり。」が繰り返されているね。ますます、真の理由が何かを知りたくなるようにしている。そのためにもったいつけているんだ。理由として、西洋文化の影響や自分自身の不安定さをわざわざ出してから否定しているのも同じ目的。「それじゃあ、一体なんなんだ?」って思わせている。ただし、わざわざ出したんだから、その影響が全くないわけではないわけじゃないんだろうね。」
「こういうもったいぶった表現には、何か名前が付いているのかな?」
「そうだね。すべて言わないという表現技法だね。たぶん、默説(中断)じゃないかな。言い止しだね。」
 この作品は、レトリック(修辞)を駆使して書かれている。鷗外は、この時代に西洋から伝わってきたレトリックを意識的に使おうとしたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    作者、畳み掛けるように仕掛けを施していて驚かされます。読み手は「読まされてしまう」事に気付かず読んでしまいます。
    「全て言わない」というのは日本人は寧ろ良く使いそうな感じがするのですが「黙説」という修辞法はこの時代前はあまり使われなかったものなのでしょうか?

    • 山川 信一 より:

      默説は、日本人にはおなじみの修辞ですが、ここは意識的に使ったのではないかと推察します。
      また、訂正というレトリックも用いています。一度言ったことをその後で訂正するのです。(「あらず、これには別に故あり」)
      「默説」も「訂正」も西洋のレトリックの教科書に載っています。鷗外は恐らく原文で読み、使ってみたのでしょう。
      と言っても、これは私の想像に過ぎません。

  2. らん より:

    「あらず、これには別に故あり」
    また出てきました。
    ほんとにもったいぶっていて、早く理由が知りたくなりますね。
    小説を書く上でのテクニックなんですね。

  3. 山川 信一 より:

    鷗外は、明治という新しい時代にふさわしい小説を書こうとしたのでしょう。
    それで、西洋のレトリックを意識的に取り入れています。

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