憤悶と慙恚

己《おのれ》の珠《たま》に非《あら》ざることを惧《おそ》れるが故《ゆえ》に、敢《あえ》て刻苦して磨《みが》こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々《ろくろく》として瓦《かわら》に伍することも出来なかった。己《おれ》は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶《ふんもん》と慙恚《ざんい》とによって益々《ますます》己《おのれ》の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

 美鈴に戻った。この部分は前回の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の解説になっている。
「ここで「珠」と「瓦」という比喩が出てくるけど、純子、これを何と言うの?」
「・・・隠喩ですか?」
「はい、正解。じゃあ、それぞれ何をたとえているのかな?」
「「珠」は才能があり価値のある人間で、「瓦」は才能がなく価値のない人間です。」
「そうだね。で、この部分の意味はこうなる。〈自分が才能のある価値ある人間でないことがバレるのが怖いので、人と交わって努力して磨こうとはしない。かと言って、半面、自分が才能のある価値ある人間であることを信じるために、なすこともなく平凡に俗人の仲間に入ることも出来なかった。〉」
「つまり、どちらにしても世間から離れ、人との交わりを避けるこになったんだね。それで、その時の気持ちが「憤悶と慙恚」なんだね。具体的に言うとどういう気持ちかな?」
「「憤悶」は〈憤いもだえること〉で、「慙恚」は〈恥じて恨み怒ること〉だね。李徴は、何もかもが思い通りに行かなくてイライラしてたんだ。」
「これは、詩家として名を成そうと思い、故郷に帰った頃の思いだよね。「憤悶」は、この俺がこれほど努力しているのに、なんで上手く行かないんだ、なぜ世間は俺の詩を認めてくれないんだという思いだよね。じゃあ、「慙恚」は?何を恥じるんだろう?」
「今の自分の立場じゃない?だって、浪人していて身分は定かじゃないし、収入もないから、妻子の衣食にも困っている。そんな自分を恥じたんだよ。」
「それで、「益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。」と言うけど、それはなぜ?」
「だって、そんな惨めな姿を人にさらすわけにはいかないよね。成功するまで人前には出られない。だって、人になんて言われるかわからないもの。自尊心を守るためますます臆病になるよね。負のスパイラルに陥ったんだよ。」
 李徴は、人との交わりが怖かったんだ。人は絶えず自分を評価する存在だから。それはわかる。今だって、SNSの誹謗中傷に耐えられなくて、自殺する人もいるんだから。「憤悶と慙恚」には、後悔もあったんじゃないかな?こんなことなら、役人を辞めるべきではなかったとか、俺はなんて中途半端な人間なんだとか、何一つ徹し切れていないとか、これが俺の本性なのかとか、一体俺が欲しいものはなんなんだとか。そんな姿は、決して人に知らせるわけにはいかない。人から何を言われるかわからないからね。李徴は苦しかっただろうな。李徴を一方的に責められないよ。

コメント

  1. すいわ より:

    ここまで来てやっと自分の本心を語る李徴。自分の弱さ、駄目な所を認めて吐露する虎の姿の今の方が余程人間らしい。虎の容れ物から抜け出ることが出来ないからこそ言えたことなのかもしれませんね。人の姿だったら袁傪相手でもここまで自分をさらけ出す事は出来なかったかもしれない。人の目を気にしてその評価を怖がるのに、李徴は周りの人を「俗人」として扱う。結局、他者を決めつけるその物差しが自分自身をもがんじがらめに縛り付けてしまっています。傷つくことを恐れて守りに徹した結果、傷の手当ての仕方を知らず手遅れになってしまう。哀れですね。

    • 山川 信一 より:

      「人の目を気にしてその評価を怖がるのに、李徴は周りの人を「俗人」として扱う。」その通りですね。
      そこには他者への信頼がありません。しかも、「俗人」ではなく、「俗物」と軽蔑しています。
      しかし、李徴は決して特別な人間じゃありません。李徴ほど優秀じゃなくても、同種の考え方をする人間はいくらでもいます。
      それに気付かず、気付こうともしない人間が・・・。

  2. らん より:

    瓦ですか。瓦ってそう言う意味なのですね。
    自分は珠で私たちは瓦かあ。。。
    それに俗人ではなく、俗物ですか。物ですか。。。
    ああ、これでは人と分かり合えないですね。
    李徴とは友達になりたくないです。

    • 山川 信一 より:

      「俗物」は「俗人」を軽蔑的に言う言葉です。
      李徴のように優秀な人は、平凡な生き方はしたくないでしょうね。
      だから、そうして生きている人たちを軽蔑するのです。

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