李徴の蹉跌

数年の後、貧窮に堪えず、妻子の衣食のために遂(つい)に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己(おのれ)の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙(しが)にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才(しゅんさい)李徴の自尊心を如何(いか)に傷(きずつ)けたかは、想像に難くない。彼は怏々(おうおう)として楽しまず、狂悖(きょうはい)の性は愈々(いよいよ)抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、汝水(じょすい)のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。

 あたしの番だ。ここは前回の続きだね。小説の舞台背景の説明だ。
「じゃあ、純子、前回の質問の答えを言って。」
「すべてが思い通りにならなくなって、こんなはずではなかったと焦ってきた。自分の詩を認めてくれない世間を憎んだり、自分の才能を自身でも段々疑うようにもなってきた。憤って悶々としていた上に、収入がないので、食べる物にも事欠き、栄養不足になり痩せてしまった。」
「まあ、そんなところだね。よく考えてきたね。」
「じゃあ、今日のところを読むよ。数年間は、それでも頑張ったんだけど、とうとう貧乏生活に耐えられなくなり、妻子の衣食のために遂に信念を曲げて、再び東に向かい、一地方官吏の職に就いたんだ。と言うことは、李徴は既に結婚していたんだね。結婚は役人時代だよね。エリートで美少年だから、女は放っておかないよね。節を屈して再就職したのは、自分の詩人としての生活に半ば絶望したためでもあった。いくら頑張っても、世間から認めてもらえなかったからね。さすがに自分の才能に見切りをつけたんだね。ただ半ばとあるから、まだ未練はたっぷりありそう。ところが、再就職をしたものの、かつて同じ身分だった者は、その間に出世して、遥かに高い身分になっていた。昔、彼が鈍いやつだと思って問題にもしなかった連中の命令を受けることになった。そのことが、かつての秀才李徴の自尊心をひどく傷つけたんだ。これは容易に想像できるよね。その結果、李徴は不愉快でたまらず、非常識な性質は抑えられなくなっていった。一年の後、公用で旅に出て汝水の辺りに宿ったとき、ついに発狂してしまった。ある夜中、顔色を変えて寝床から起き上がると、訳のわからないことを口走りながら飛び下りて闇の中に駆け出して二度と戻ってこなかった。辺りの山野を捜索したけれど、何の手掛かりもなかった。李徴は行方不明になり、その後どうなったかは誰にもわからない。大体こんなところかな。わかったかな。細かい語句の意味は自分で調べてね。」
「はあい。」
「それでは、次回までに考えてくる問題。発狂するに至るまでの李徴の気持ちを具体的な言葉で説明すること。李徴になったつもりでね。」
 まさに絵に描いたような挫折だ。自尊心の塊のような李徴がどれほど苦しんだことか。発狂したのもわかるような気がする。だって、李徴にとって他者からの評価が絶対だからね。プライドがズタズタだよね。

コメント

  1. すいわ より:

    李徴は自分の価値を自分で決められなかった、と先生おっしゃられました。だとすると結婚も、ある程度の年齢になったのだから所帯を持つのが当たり前、という世間体によるものだったのではないでしょうか。「妻子の衣食のため」に節を屈した事にしていますが実は詩で認められない事の言い訳にすり替えているようで狡いなぁと思いました。外からどう見えるかを気にする割に、李徴自身は自分にしか意識が及ばない。周りを見ていない。足踏みしている自分に気付かない。同輩との差を目の当たりにした時、初めて自分の経っている場所に気付いて大きなショックを受けた事でしょう。それでも「何故、私がこんな事になったのだ?」と思っているのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      結婚については、同意見です。役人としてのたしなみによるものだったのでしょう。「妻子の衣食のために節を屈した」ことについては、微妙なところがあります。
      言い訳でもあった可能性もありますが、やはり事実として受け取るべきです。なぜなら、ここは地の文ですから、語り手が客観的な事実を書いているからです。
      李徴には、そういう(人間的な)一面もあるのです。

      • らん より:

        先生、ここは最初と比べてると難しくなく読むことができました。
        李徴は自尊心がすごく高くて、他者からの評価をすごく気にしてたんですね。自尊心かあ。高すぎるとこうなっちゃいますよね。落ちた自分が許せなくなって。そんなの辛いですね。自分を愛せないみたいで。
        やっぱり優等生はつらいから嫌だなと思いました。

        • 山川 信一 より:

          世の中には、優等生やエリートと呼ばれる人たちがいます。この小説は彼らの心を知るにはとてもいい作品です。
          自分を本当に大切すること、自分を本当に愛することってどういうことでしょうか?
          それを考える上で参考になります。一緒に読んでいきましょう。

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