老婆の理屈

「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 老婆は、大体こんな意味の事を云った。

 あたしの番だ。ここはちょっと問題にしにくいなあ。
「老婆はなぜこんな話をしたのでしょう?」
「老婆は下人の正体を見抜いたんだ。コイツなら何とかなると思ったんだ。」
「下人が付け焼き刃の正義感からこんなことを聞いているのだとわかったんだね。そこで、自分の行為の正当性を言えば、言い逃れることができると考えた。」
「老婆が言いたいことは要するにどういうことですか?」
「まず具体例が書いてあるね。髪を抜いた女は、蛇を干し魚と偽って売っていた。しかし、これは悪いことではない。しなければ餓死するために仕方がなくすることは悪いことではないのだ。つまり、悪の正当化。開き直りだね。」
「老婆の話には説得力がある。なぜかと言えば、具体例があるから。この話の順序はとても効果的。私たちは、往々にして結論だけを言う傾向がある。これじゃ、相手を説得できない。」
「ここは、老婆の話し方がわかるように書いてあります。たとえば、「じゃが」とか「ぞよ」とか「往んだわ」とか。言わば直接話法です。でも、それを受ける言葉が「大体こんな意味の事を云った。」になっています。そもそも、この話の前に「こんな事を云った。」とあり、重複しています。これはどういうわけでしょうか?」
「下人が細かいところはともかく、言っていることの意味を受け取ったということじゃないのかな?」
「つまり、下人が具体例を通して老婆が伝えたかった主旨を受け取ったということだね。」
 ここでは、意味が重要なんだ。それは、老婆が言う次の理屈だ。〈自分のしていることが悪いことだと人は言うかもしれない。しかし、自分はそうは思わない。しなければ餓死するので仕方なくしているのだ。仕方なくすることは悪いことではない。〉誰でも自分のしていることを正当化したい気持ちがある。老婆は、それを自分でだけで正当化できる。人がどう思おうと構わない。そこが下人との大きな違いだ。下人にはそれができない。

コメント

  1. すいわ より:

    老婆は生き残るという大前提のもと、誰の価値観も挟まず自分の行為を肯定する為に自分の都合に合わせた理屈を通すのですね。良いとか悪いとかは問題にならない。それを決めるのは老婆自身だから。人の目が気になる下人にしてみたら、自分を肯定するに足る自信がない為に嘘までついて自分の英雄気取りの行為を正当化しようとしたのに、老婆に悪ではないと開き直られて、振り上げた太刀の納めどころを失ったような状態でしょうか。老婆の口調も自分と同等のものに対する話しようで、下人の自尊心を逆撫でしているように思えます。老婆、「大方わしのすることも大目に見てくれるであろ」、だからお前さんも見逃せ、と言うつもりなのでしょうけれど、目論見の外れた下人、どう出るのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      「何も知らないくせによく言うわい。お前さんと違って、わしはこの女を生きている時から知っておるのじゃ。じゃから、わしのしていることは大目に見てくれることもわかってしておるのじゃ。
      まして、何の関わりの無いお前さんが口を出す類いの話ではないぞよ」でも言いたいのでしょう。背でに対等に渡り合っています。
      下人の心理が不正確です。ここは、「自分の英雄気取りの行為を正当化しようとした」ではなく、〈自分勝手な憎悪を正当化するために英雄気取りの演技までしたのに〉です。
      一度は既に収まっていた憎悪が別の理由で蘇っています。「振り上げた太刀の納めどころを失ったような状態」というような心理状態ではありません。
      しかも、その憎悪も老婆の話を聞くにつれ収まっていきます。

      • すいわ より:

        下人の心理が上手く掴めずもやもやしてました。頭から通して読み返し、先生のおっしゃる通り、〈自分勝手な憎悪を正当化するための英雄気取りの演技までしたのに〉でなるほどと思えました。自分を守る為にひたすら自己中心的に自分の中へ籠もっていく、自分の中ではフラフラと決められず、かと言って老婆の言い分に影響されるわけでもなく、あくまでも自分に都合のいいようにその言葉を受け取っていくのですね。

        • 山川 信一 より:

          結論ははっきりしているのです。ただ、それを自分の意志で実行する勇気がないだけ。
          ご立派なあるいは当然のあるいは言い訳ができる口実が要るのです。
          老婆の話もそれを求めながら聞いています。

  2. らん より:

    老婆の理屈は説得力がありますね。
    みんな、悪いことしたけど、生きていくための連鎖なんだからこれでいいんだみたいな。
    自分はこう思ってるのだから、あんた関係ないよ、あっちいけ、みたいな風に思えました。
    下人が適当なやつと見ぬいてますね。

    • 山川 信一 より:

      老婆の話は、下人にとって好都合の話でした。だって、実は下人もそう考えていましたからね。
      老婆との違いは、それが実行できるかどうかです。
      老獪な老婆は、下人の優柔不断さを見透かしているようです。

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