人心の荒廃

 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災いがつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。

 今日はあたし(島田美奈子)の番だ。いい先生になるぞ。
「じゃあはじめます。」
「ちょっと待って、前回のことなんだけど、ちょっと訂正したいことがあるんだ。あたしは「ありそうなものである。それが~誰もいない。」について、二重否定と言ったけど、あれは違うな。だって、否定は一つしか無いからね。「ありそうな」は言わば、可能性の示唆。だから、敢えて言えば〈可能性否定〉かな?いずれにせよ、異常性の強調という点では一緒だけど。以上です。」
「わかりました。じゃあ、始めますね。「何故かというと」「旧記によると」という言葉が気になります。なんか説明的でくどい感じがする。なんでこんな書き方をしたんだろう。」
「この小説の性質を知らせているんだね。つまり、昔話のようには読んでほしくないんだよ。読み方の姿勢を促しているんだ。」
「確かにこれまでの書き方だとそう思われるかもしれない。書き出しなんて、〈昔々あるところに~がおりました。〉という昔話の書き出しそのものだものね。そう読まれることを避けたんだね。これは小説であって、昔話ではないと。」
「じゃあ、「何故かと云うと」の理由は何?」
「羅生門に人気がない理由だね。それと、門の丹塗りが剥げている理由。」
「このエピソードが書かれている「旧記」とは何か?」
「『方丈記』だね。まあ、それがわからなくても読めるけど。」
「なんでこんな書き方をしたのかな?」
「この話には事実に基づいていると言いたいからじゃない?信憑性を持たせたんだよ。」
「読者に緊張感を与えるためでは?この小説は教養が無いと読めないぞって言っている気がする。」
「逆にそれが直ぐにわかる人には、親近感が湧く。しかも、作者が読者を選んで書いている気がして、自分が選ばれたように思えて優越感がくすぐられる。」
「要するに、羅生門の辺りがいかに異常な状況にあったかを信じさせたいんだね。」
「それにしても、死人を棄てていくって、ひどいよね。仏像や仏具まで薪にして売っている。神も仏も無いね。「衣食足りて礼節を知る。」って言うけど、人の心がすっかり荒んでしまったんだね。」
「「日の目が見えなくなる」というのは、日が沈むってってことだね。「足ぶみをしない」と呼応させたのかな?「目」と「足」で縁のある言葉だから。」
「すると、下人はそんなところにいたんだね。平気なんだろうか?前に「この男のほかに誰もいない。」ってあったけど、普通の人ならこんな時間にこんなところに来ない。下人には、よほど事情がありそうだね。いろいろ疑問が湧いてくる。これも先を読ませる仕掛だね。」
 表現には、描写と説明がある。もちろん、実際の表現は、それを明確に区別することはできないものもある。見方を変えれば、どちらとも言えるからだ。けれど、この段落は説明的な性格が強い。この小説は、読者に内容をいかに思い通りに読ませるかに気を払って書かれている。その意味で表現がかなり技巧的だ。その点、『盆土産』とは対照的だ。あれは、できるだけありのままに事実を再現して、それをどう受け取るかは読者に任されていた。でも、この小説はそれを許さない。

コメント

  1. すいわ より:

    史実によると、として読み手にただの「お話し」でなく、ともすれば読み手にも起こりうる「事実」としてとらえさせる事で有無を言わせない、物語から逃れさせない、操り人形のように芥川の指差す方を見ずにはいられない感覚になります。
    崇め奉っていた対象を直接的に生きる為の薪として使うのでなく、商売の元手の掛からないモノとして扱う。荒んでますね。巷を歩くのはヒトを化かす狐狸(妖)と悪人。それでは、ただ一人、そんな羅生門の下に立つ男は一体何者か。その足下にはヒトとして勘定されない屍体が転がっているかもしれないのに。怖くて目を逸らしたくなるのにクローズアップされて行く男の顔を見ずにはいられなくなります。お話から逃れられません。

    • 山川 信一 より:

      羅生門は、今や悪の象徴のようなところです。そんなところに一人で雨止みを待っているこの男、一体何者なのか。読者に期待を持たせていますね。
      死体は、どうも門の二階に棄てていくらしい。と言うのも、さすがに目に付くところに死体があるのは避けたいのが人情だからでしょう。
      この門は、南北8メートル、東西32メートルあり、瓦屋根の二階が付いていたそうです。

      • すいわ より:

        目に付かない二階に棄てられたのですね。天井桟敷から亡者達の幾つもの暗い穴が男へ視線を落とし覗き込んでいる、、そんな絵面が思い浮かんで、もっと闇深く恐ろしい情景が頭の中に出来上がってしまいました。

  2. らん より:

    ほんとだ。日の目と足ぶみが呼応していますね。

    仏像や仏具をそんな風に扱うなんて。
    ああ、荒んだ洛南の様子、目に浮かびます。
    荒れ果てた、だれも近寄らない恐ろしい羅生門の場所に、下人はなんでいるのでしょうか。知りたくなりますよね。芥川さんの文章、巧みです。
    でも、やっぱり背景が怖いです。ぶるっときます。

    • 山川 信一 より:

      世の中が荒廃すると、人の心まで荒廃してきます。何でもありの世の中になってしまいます。
      今の社会もそうならないと言う保証はどこにもありません。コロナが怖いですね。

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