いっとう悲しいとき

「いっとう悲しいときは……?」
「天使園で育った子が世の中に出て結婚しますね。子供が生まれます。ところがそのうちに、夫婦の間がうまくいかなくなる。別居します。離婚します。やがて子供が重荷になる。そこで、天使園で育った子が、自分の子を、またもや天使園へ預けるために長い坂をとぼとぼ上ってやって来る。それを見るときがいっとう悲しいですね。なにも、父子二代で天使園に入ることはないんです。」
 ルロイ修道士は壁の時計を見上げて、
「汽車が待っています。」
と言い、右の人さし指に中指をからめて掲げた。これは「幸運を祈る」「しっかりおやり」という意味の、ルロイ修道士の指言葉だった。


「元園児が自分の子を天使園に連れてくるのがいっとう悲しいのはなんでだろう?」
「それは、自分が辛かったことを自分子どもにもすることになるから。それは、絶対しちゃいけないことよね。なのに、教え子がそれをしてしまう。それは、自分の教えが不十分だったからだ。ルロイ修道士ならそう考えるわ。」
「ルロイ修道士は、自分の子を自分で育てられる人になってほしかったんですね。それを最低限の望みにしていた。でもそうじゃなかったら、悲しくなりますね。」
「すごい責任感だね。」
「その子にしても「とぼとぼ上ってやって来る」とあるから、気が進まないことはわかる。申し訳なさでいっぱいだったと思う。ルロイ修道士にはその気持ちもわかるから、いっそう悲しいんだよ。」
「自分の子を預けに来る子も、天子園への信頼があるから来るんだ。ここは居心地のいいところだから。ルロイ修道士がそういうところにしてくれていたからね。逆に言えば、それが裏目に出てしまったんじゃないかな?ルロイ修道士は、あまりにいい教育をしすぎてしまった。それがある種の甘えを生んで、自分の子を連れてくることになった。とんでもなく嫌なところだったら、そうはしない。その皮肉を感じているんじゃないかな?」
「別れにも指言葉だね。「さようなら」とは言っていない。敢えて言わなかったんだね。本当はさようならだから。」
「そこは隠して、最後まで、教師であり続けたのね。」
「汽車で帰るんだね。汽車は蒸気機関車のことだよね。だとすると、この話の年代がおおよそわかる。蒸気機関車は、1970年代で廃止されている。と言うことは、この時は1970年代。すると、ルロイ修道士の年齢は、初めに想定したのよりも少し若いことになる。すると、病気がいっそう意味を持ってくる。まだ50代だよ。まだ死ぬような年齢じゃないんだ。」
 教師の悲しみが伝わってくる。ルロイ修道士は、教師に徹して生きたんだね。

コメント

  1. すいわ より:

    ルロイ修道士は人生の終い方まで見せて行こうとするのですね。
    前回、「学校というところは、卒業していくところ。それ自体を要らなくするためのところなの。だから、教師も忘れられてしまう存在。」と書かれているのを見て、なるほどと思いました。若い頃は前へ進む事しか考えていない。それとは気付かず、守られ慈しまれた時間を振り返る時があるとすれば、逆境に置かれた時でしょう。帰れる場所があるのは幸いだけれど、天使園は名前を持ってくぐる門であってはならない。天使園の存在自体が必要ない事が理想なわけですから。人間関係、人の気持ちはままならないものですね。一人の意思で出来上がっていない。悪い事をしながら良いこともする。先生として、その不完全さまで教えようとしているように思えます。お別れの指文字、クロスを表していますけれど、切れることのない、縁の結びと思いたいです。

    • 山川 信一 より:

      「お別れの指文字、クロスを表していますけれど、切れることのない、縁の結びと思いたいです。」きっとそういう思いでしょう。
      教師としての不完全さを隠そうとしません。それも立派な教育です。この点も、当然ではあるけれどなかなかできないことです。

  2. nina より:

    質問なのですが、「いっとう悲しいときは・・・・・・?」というセリフはどうして最後まで言えず…となってしまったのでしょうか。

    学校でその理由について考えろと言われたので何かしら答えはあると思うのですが、全然わかりません。

    • 山川 信一 より:

      お待たせしました。私は原則として1日に一度しかここに来ません。よって、投稿を含めてすべて一度に書きます。それでお待たせすることもあります。予めご了承ください。
      小説の語句を解釈するときには、自分の経験を思い出しましょう。確かな小説は、現実を踏まえて書かれているからです。
      「嬉しい」と「悲しい」は対照的な意味を持った言葉です。だから、「わたし」は「いっとう嬉しいとき」の次にその流れで「いっとう悲しいとき」は何かを聞いたのでしょう。
      しかし、それを口にしたときにある種のためらいを感じました。〈聞くのはまずかったかな?〉とか〈聞くべきではなかったかな?〉とか、そんな風に思ったのでしょう。だから、最後までこと質問を完成できなかったのです。
      そもそも、相手に対して聞きやすいことと聞きにくいことがありますよね。「好きな歌手は誰?」は聞きやすいけれど、「このクラスで一番憎んでいる人は誰?」なんては聞けませんよね。
      同じように、「いっとう嬉しいとき」より「いっとう悲しいとき」は聞きにくいはずです。相手に嫌なことを思い出させるかもしれないからです。私たちは日常こういう思いやりを持って話しているはずです。
      しかも、このときは更に重要な理由がありました。それは、かつて「わたし」がルロイ修道士を悲しませたことがあったからです。その話をされたらどうしよう、そんな思いがよぎったのです。それは何より「わたし」には辛いからです。

  3. nina より:

    質問なのですが、なぜ「いっとう悲しいときは……?」と最後まで質問が言えなかったのでしょうか。
    学校の課題で考えるように言われましたが分かりません。

    • 山川 信一 より:

      催促させてごめんなさい。もしまだご質問があれば、再度聞いてください。

      • nina より:

        ありがとうございます!

        すみません、コメントを送信した時に間違えて電源を切ってしまい送れたか分からなかったので二度も送信してしまいました。

        とても助かりました。

  4. nina より:

    すみません何度も。もう一つ質問させていただきます。

    「わたし」は先生を悲しませることをしてしまった。でも川上君は先生にとってとても嬉しいことをしました。

    「わたし」はもしいっとう悲しいことについて先生が自分のことを言ったら、まるで川上君と対比されてるように感じると思います。私はそれが怖かったのもあるのかなと思ったのですが…。

    • 山川 信一 より:

      「上川君」ですね。読むときは、文章から目を離してはいけません。一字一句丁寧に読みましょう。
      読むとは、自分を読むことだと言いいます。「まるで川上君と対比されてるように感じる」と思うところにあなたの人間観が表れています。
      つまり、それは、自分が上川君よりも劣っていることになるのが怖かったと言うことですか?それはなぜでしょうか?ルロイ修道士に上川君よりも自分が下に思われたくないからですか?
      でも、ルロイ修道士は、生徒を「対比」して優劣をつける教師でしょうか?「わたし」は、ルロイ修道士をそんな教師だと思っているでしょうか?
      あなたの出会った教師はもしかするとそうだったのかもしれませんね。あなたにそう考えさせているのですから。
      言葉を理解するには、自分の経験を当てはめるしかありません。しかし、それは文章を自分の経験で割り切ることではありません。
      それこそ、自分の経験と文章に書かれていることを「対比」して、文章を理解するのです。

      • nina より:

        ありがとうございます。
        助かりました。

        • 山川 信一 より:

          少し言い方が厳しかったですね。気を悪くしたらごめんなさい。
          これに懲りずにまた質問してください。

          • nina より:

            ありがとうございます。
            またそのうち質問させていただくかもしれません。

          • 山川 信一 より:

            はい、お待ちしています。
            よろしければ、『山月記』の授業にも来てください。
            中2の純子も背伸びして頑張っています。

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