ルロイ修道士の左の人さし指

「先生の左の人さし指は、相変わらず不思議なかっこうをしていますね。」
 フォークを持つ手の人さし指がぴんと伸びている。指の先の爪はつぶれており、鼻くそを丸めたようなものがこびり付いている。正常な爪はもう生えてこないのである。あのころ、ルロイ修道士の奇妙な爪について、天子園にはこんなうわさが流れていた。日本にやって来て二年もしないうちに戦争が始まり、ルロイ修道士たちは横浜から出帆する最後の交換船でカナダに帰ることになった。ところが日本側の都合で、交換船は出帆中止になってしまったのである。そして、連れて行かれたところは丹沢の山の中。戦争が終わるまで、ルロイ修道士たちはここで荒れ地を開墾し、みかんと足柄茶を作らされた。そこまではいいのだが、カトリック者は日曜日の労働を戒律で禁じられているので、ルロイ修道士が代表となって監督官に、「日曜日は休ませてほしい。その埋め合わせは、ほかの曜日にきっとする。」と申し入れた。すると監督官は「大日本帝国の七曜表は月月火水木金金。この国には土曜も日曜もありゃせんのだ。」としかりつけ、見せしめに、ルロイ修道士の左の人さし指を木づちで思い切りたたきつぶしたのだ。


「このエピソードは、哀しいなあ。ずいぶんひどいことをした人がいたのね。指を木づちで叩き潰すなんて、よくそんなひどいことができたわね。」
「人間て、個人ではできないことも何かを代表してなら、どんなひどいことだってしてしまうところがある。責任が問われないからね。あれは立場上仕方なかったんだって言い訳ができるから。」
「そうだね。だけど、それもあるけど、組織に逆らうことができないからでもあるわね。こういう場合はこうすべきだって、忖度してしまうのよ。自分が組織からはじかれたら嫌だから。」
「もちろん、個人が我が儘う言うことはよくない。でも、一方でfor the teamで、何でもが正当化されてしまうことも怖い。」
「その監督官は、自分が無いんですね。」
「嫌だなあ。でも、これってあたしたちの日常と本質的には変わらないんじゃない?似たようなことをしている気がする。」
「と言うことは、その監督官は私たちなのね。」
「もし違うと言うなら、行動を以て証明しないとね。」
「それにしても、なぜ左の人さし指なの?」
「たぶん、その時、左指をぴんと立てて振りながら抗議したんだよ。ほら、こんなふうにね。それで、生意気に思われて、大勢で押さえつけられて、その指を叩き潰されたんだ。」
「きゃー、怖い!想像したくない。」
「ルロイ修道士は、さぞかしそのことを恨んだろうね。」
「そりゃあ、そうだよ。こんなに理不尽なことをされたんだから。」
「戦争当時の外国人は、ひどい扱いだったんだね。どんなだったか、調べてみたくなった。」
「レオ・シロタというピラニストがいたの。シロタは、オーストリア人だったから、敵国の人じゃなかった。だけど、外国人はみな軽井沢に集めたれたんだって。軽井沢は夏はいいけど、冬はとても寒い。食糧不足もあって、ひどい目に遭ったそうよ。ちなみに、その娘がベアテ・シロタ・ゴードン。日本国憲法に女性の権利について書いた人なの。」
「へぇー、そうなんだ。凄くドラマチック。」
「でも、日系人もアメリカではひどい目に遭ったんだよね。強制収容所に入れられたって聞いた。」
「そのあたりは、井上ひさしに『マンザナわが町』という戯曲があるわ。」
 監督官は、自分が大日本帝国を代表していると思っていたんだ。立場で行動し、個人を見失うって怖いなあ。戦争中に何があったか、知らないことがいっぱいあるなあ。

コメント

  1. すいわ より:


    前回コメント、ルロイ修道士の「万力より強い握手」を「押し潰されそうな圧倒的な力強さと愛情の深さを感じさせます。」と書きました。書いてしまいました、、本文書き写すペン先が震えました。万力のような絶対的な力で拘束され、意思を能弁に語る人差し指を潰されるなんて。あくまでも天子園での噂として綴られていますが、時代背景を考えれば、根拠なく一人歩きした噂でもないのでしょう。ルロイ修道士自身が子供達に語る筈もありません。戦争という、理不尽が罷り通る時代を生き抜いて、それでも彼の良心は潰されることなく、その掌に愛情は満ちていた。同じ「手」のした事、何という差でしょう。
    「先生の左の人さし指は、相変わらず不思議なかっこうをしていますね。」と私だったら尋ねられるだろうか、と思いました。握手で右手を、そしてルロイ修道士の特徴的な左手を目に留め、彼自身の今を「わたし」は確認しようとしたのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      「ルロイ修道士の特徴的な左手を目に留め、彼自身の今を「わたし」は確認しようとした」、そうですね。きっとそうなのでしょう。握手の違和感から変わらない左の人さし指に目をとめたのでしょう。
      そして、一度は言いたかった思いを口にしたのでしょう。今までは、その話題を出せなかったから。
      ただ、噂には続きがあります。左の薬指のことは事実のようです。

  2. らん より:

    ルロイ修道士にひどいことをしてしまいました。同じ日本人としで謝りたいです。
    戦争は地獄ですね。人の心を変えてしまいました。
    そんなひどいことをされても、子供たちに優しくしてくれるのだから、ルロイ修道士はほんとにいい人です。
    握手の違和感から変わらない左のひとさし指に目を止めたのですね。
    そして、ずっと言いたかった思いを口にしたこと、納得です。

    • 山川 信一 より:

      「同じ日本人としで謝りたいです。」は、私も同じ思いです。でも、ルロイ修道士は、そう思ってほしくないのです。
      その理由は明日明らかになります。

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