作品の変更 ~『故郷』の取りやめ~

 希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台を所望した時、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ。

 上は『故郷』の末尾の方にある文章です。これを例にとって、作品変更の理由を述べます。
 閏土の「偶像崇拝」と「香炉と燭台」に願いを掛けることを言います。閏土は、「香炉と燭台」に祈って、少しでも自分の生活がよくなること、幸せになることを願うのです。「わたし」はそれを軽蔑します。そんなことでは改善などしないと。どころが、自分も同じではないかと疑いを持ちます。自分も手製の「希望」という偶像を崇拝しているだけではないかと。しかし、この場合の「希望」とは何でしょうか?それは、中国人がそれまでとは違う新しい生活をすることです。端的に言えば、幸せになることです。と言うことは、閏土と「わたし」の願うものは同じではないでしょうか?ところが、「ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ。」と言います。これでは、閏土が「香炉と燭台」そのものを望んでいることになります。しかし、彼の望んでいるのはそれ自体ではありません。一方「わたし」の言う「希望」は手製のものですから、それ自体はすぐ手に入ります。なぜなら、頭の中で作り上げたものですから。しかし、「わたし」が望んでいるものも、「希望」それ自体ではなく、それが実現したものです。そう考えると「わたし」の思考はかなり混乱しています。それは、作者魯迅の思考が混乱しているからでしょう。
 ここでは一部だけを取り上げましたが、他も同様です。この作品の文章は読み手を混乱させます。こんな文章は読まない方がいい。無理にわかろうとすると、頭が悪くなります。それなのに、なぜか中学三年生の定番教材として、教科書には必ずと言っていいほど入っています。教師たちは、作者が魯迅だということでありがたがり、生徒に感動を押し付けます。現状の国語教育の欠陥が端的に表れています。
 そこで、この「国語教室」では、これを扱わないことにしました。代わりに、井上ひさしの『握手』と三浦哲郎の『盆土産』を扱います。どちらも読みやすく、扱っているテーマも有意義だからです。ただし、難易度からすれば中1でもいい。むしろ、『少年の日の思い出』を中3に持ってくるべきです。なぜあんな難解な作品を中1で扱うのか理解に苦しみます。こう言った反省が無いのも国語教育の欠陥です。

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