ハッピーエンド

 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


 さあ、今日は気合いを入れて発表するぞ。今日のためにとことん考えてきたんだから。
「「群衆の中から歔欷の声が聞こえた」とあります。「歔欷」とはすすり泣くことです。集まった人は、メロスとセリヌンティウスの友情に感動しています。その様子を漢語で表して、重々しく表現しています。群衆は、自分たちがそれまで抱いていた人間観をメロスが覆してくれたことに感動しているのです。それまでの人間観は、信実など存在しないというディオニスに近いものであったのでしょう。いざとなれば、自分が可愛いので、ウソでも何でもつくのが人間なんだって思っていました。それがそうじゃないと思えてきたからです。その意味で、メロスはメロスの使命を果たせました。群衆の「歔欷」はそれを表しています。」
「なるほど、群衆の役割はそれもあるのね。障害だけじゃないのね。」
「いえ、それだけじゃありません。さらにもう一つあります。暴君ディオニスは、二人の様子をうかがっています。それと共に、群衆の反応も気にしていたはずです。「まじまじと見つめた」とあります。きっと冷静に「どうしたものだろうか」と考えていたのでしょう。やがて自分の取るべき態度を決めました。自分の負けを認めることにしたのです。ディオニスが心から考えを改めたかどうかは本当のところ何とも言えません。もちろん、そう思うこともできます。でも、この場面では、そうせざるを得なかったのです。それを促したのが群衆です。これに逆らうことはできないと考えたのでしょう。」
「群衆は、大衆と言ってもいいね。大衆の力も侮れないよね。要するに、世の中を変えるには大衆をどう動かすかってことなんだ。」
「はい、そうです。ここで、ディオニスは顔をあからめます。もちろん、負けを認めることが恥ずかしかったからです。でも、それと同時に、ここは蒼白で血の通わない顔としていたディオニスに人間らしさが戻ってきたことを暗示しているとも言えます。」
「こんな風にイメージカラーの赤を生かしたのね。」
「「万歳、王様万歳。」とありますが、あれだけ人を殺した王が受け入れられるのは、虫が良すぎる気もします。少し現実離れして、お伽噺みたいな気もします。でも、これが一番円満な解決なのでしょう。それは、作者がメロスのその後を暗示したいからでもありました。
「「ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。」とあります。「緋」は〈やや黄色みのある鮮やかな赤〉です。この色こそ、勇者メロスにふさわしい色でもありました。同時に、この少女をイメージする色にもなっています。少女は、この色が似合う可愛い少女でした。その少女が自分のマントを捧げたのです。メロスはその意味がわからずまごつきます。いかにも、これまで女性と関わりを持ったことのない男の反応です。なぜなら、メロスは妹を育てることで、恋も結婚もできなかったのですから。そこで、セリヌンティウスはその意味を教えてやるのです。「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」と。つまり、「この娘さんは君に惚れてしまったんだよ」と教えてやります。異性を好きになると、独占したくなるからです。娘さんはメロスを独り占めしたくなったのです。」
「なるほど、辻褄がちゃんと合っている。太宰治はなんて周到に書いているんだ。」
「「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」は意味深長な言葉ね。セリヌンティウスは上手い言い方をしたわね。惚れたよって、直接言わないんだから。」
 最後の一文について言いたいことがかなりあった。それで、その発表は次回にしてもらった。

コメント

  1. すいわ より:

    広場を埋め尽くした群衆、いつもなら高みの王に向かって平伏しているところでしょう。でも、今この時、広場の中心はメロスとセリヌンティウス、視線の先は2人に注がれ、王は群衆の後ろ姿を見ている。信実が証明され、大衆に支持される所を王は目の当たりにして、己の負けを認める。人の心はそう簡単に変わるものではないでしょうけれど、「どうか、仲間に」と重ねて願っている姿、初めて王が血の通った「人間」に見えるシーンです。
    赤々と燃える夕陽色と同じ色のマントに身を包むメロス、勇者に相応しい赤い色、一歩間違えば自らの血で広場を染めていたかもしれない。大役を果たし終えた英雄のメロス。最後に少女にマントを渡され赤面する所で、ひとりの、ただの男に戻った感じがします。試練を乗り越えて生まれ変わり、真裸の赤子に戻った新しいメロス。また、明日、日は上り平凡でも真っ直ぐな人生が続いて行くのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      明日は、メロスのイメージカラーがなぜ赤なのか、そのもう一つの理由が明らかにされます。
      「最後に少女にマントを渡され赤面する所で、ひとりの、ただの男に戻った感じがします。」は、素直な思いですね。それこそが作者の意図でした。

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