わけのわからぬ大きな力

 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。


 いつものように若葉先輩は、いきなり本題に入った。
「メロスが何のために走っているのかを問題にしたい。前回フィロストラトスの役割について真登香班長の発表があったけど、実はもう一つ役割があるんだ。それは、メロスになぜ走るのかを言わせることなんだ。前回の部分には「間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。」とあったよね。今回の部分には、「ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。」とある。メロスは自分の意志で走っていると言うよりは「もっと恐ろしく大きいものの為に走っている」と言う。これって何だろう?作者はなぜこんな漠然とした表現にしたのだろう。それは、メロス自身わからなかったからだよね。では、メロスにわからないものを読者がわかるのだろうか。しかし、読者はそれが何だろうと当然考える。考えさせることが目的だったんだ。だから、答えは一つじゃ無くてもいい。各自が思ったことでいい。とは言え、何でもいいという訳にも行かない。「間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でない」と言っている。これは、走った結果ではなく、走る過程が重要だということだよね。では、メロスが走ることはどんな意味があるのか?走ることで何が明らかになるのか?それは、信実を守ろうとする姿勢だ。メロスが走ることでそれが確かに存在することを証明することになる。逆にもし走るのを止めたら、人間には信実などないことになってしまう。この時のメロスは、人間を代表してそれを証明しようとしていたんだ。少なくとも、メロスはそう思い込んでいたんだよ。ほら、泉の水を飲んだ時、メロスに女神が囁いたよね。「メロス、走りなさい。あなたはここで走るために生まれてきたのです。」って。その声に引きずられて走ったんだ。これは、客観的にみれば、メロスの錯覚だし、思い込みだよね。それが正しいかどうかなんてわからない。でも、この時、メロスは自分が何のために生まれてきたのかを悟ったんだ。
 そして、ついに間に合った。でも、群衆が邪魔になってなかなか磔台までたどり着けない。実は、群衆が最後の障害なんだ。群衆は、単なる傍観者、利害に関わらない第三者だよね。でも、第三者は無責任に何でも言えるから、あれこれ言って邪魔することがある。たとえば、テレビのワイドショーなんかの話題って大体それだよね。でも、これが結構、力を発揮したりする。それを象徴しているんだ。ただし、逆に味方になることもある。「あっぱれ、ゆるせ」がそれだよ。」
「なるほど、そうね。私も「もっと恐ろしく大きいもの」「わけのわからぬ大きな力」って何なのか、考えたけど今一ついい答えが出なかったわ。神かとも思ったけど、そういう風に関わっているのね。メロスは自分の天命を悟ったのね。さすが、若葉だわ。納得。」と真登香班長が賛成した。
「難しいんですね。あたしは、そんなこと思いもしなかった。」と美鈴がつぶやくように言った。
「そうすると、メロスは幸せですね。とにかく自分の生きる意味を見つけたんだから。普通それが見つからなくて悩んだりしますよね。自分探しとか言って。死ぬ気になって頑張らないと見つからないってことかな?」とあたしは自分自身に重ねてみた。
「自分がしたいと思っても思い通りにならないんですね。あたし、お金さえあれば何でもできるって思っていました。でも、そうじゃないってわかりました。だって、障害が全部で10個も出て来たから。」と美鈴が言った。
 そうそう。人生は、この学校に入れば、この会社に入れば、この人と結婚すれば幸せになれるってほど単純じゃないんだよ。

コメント

  1. すいわ より:

    メロスは何の為に走っているのか。「わけのわからぬ大きな力」とは?
    ーー「運命」でしょうか。とかく「運命」というと、良くも悪くも「これが運命」とただ一つに定められたものと捉えられがちですが、それはあくまでも後付けされたもので、実のところ運命なんていくつもある中から選び取った結果なのだと思うのです。メロスの選んだのは「信実を守る姿勢」。セリヌンティウスのメロスに対する信頼、それに見合うだけの信実をメロスは捧げる、それがメロスの走る理由であり、走り通す事がここに運命付けられた。王との約束を越えて自分で自分に課した「信実」の証明、他人任せに出来るものではありません。
    刑場に引出されたセリヌンティウスの様子をフィロストラトスがメロスに伝えましたが、この時のセリヌンティウスのメロスに対する揺らがない信頼の心、お前を信じて待っている、という声が泉の囁きだったのではないか、とも思えます。
    最後の障害「群衆」がこの2人の「信実」とまた好対照。意思を持たない「群衆」にとって善良なセリヌンティウスも磔台に括られていたら処刑というショーの「罪人」役と見なされセリヌンティウスの本質など誰も見ようともしない。メロスの信実に薙ぎ払われたら一転、無罪を声高に叫ぶ。この不確かな安全圏に人間は埋没しがち。責任を放棄して他人任せにするのは楽かもしれない、でも、メロスのようにただひたすらに辿り着く先を見つめて走り抜くのとは違い、気付けば行く末の見えない、後戻りの出来ない道に足を踏み入れていかねない。ブレない信(芯)を手に入れるのはたやすい事ではありませんね。

    • 山川 信一 より:

      「わけのわからぬ大きな力」が何なのかは、実際にはわかりません。ただ「間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。」と言う時の「もっと恐ろしく大きいもの」だと、メロスが感じているのです。自分を超えた何かです。名誉を守ろうとか、信頼に応えたいとか、王に思い知らせてやろうとか、そういった個人的な思いを超えた何かです。メロスは自分が個人としてではなく、人類を代表して走っているそんな気になっているのではないでしょうか?走らねば、何かが失われる、これは個人の問題では無いのだ。そんな大それたことを担って走るのは、恐ろしい。しかし、やるしかないのだ。自分はそのために生を受けたのだ。そんな気持ちになっているのではないでしょうか?錯覚と言えば錯覚かもしれませんが。

  2. なつはよる より:

    先生、「もっと恐ろしく大きいもの」の、「恐ろしく」を、「畏怖」の意味ではなくて、「大きい」を修飾する「とても」とか「途方もなく」の意味にとってもいいですか?

    「もっと恐ろしく大きいもの」とは、二人が信じ信じられていること、その絆そのもので、そしてそれがとても大きいという意味に受け取りました。メロスは一途に走っていたので、あまり複雑なことは考えていないと思います。自分が信じている友がぎりぎりの瞬間まで自分を信じてくれている。うれしい。だから走る。というシンプルな気持ちだと思います。王との賭けとか、間に合わないと殺されるとかを考えていないのはもちろんのことですが、さらに、結果より過程が大事というのは、そばで見ているものが思うことで、「結果を考えない」と心の中で思っていることと、結果のことを全く意識していないこととは、かなり違うと思います。

    そうして夢中で走っているメロスを、「わけのわからぬ大きな力」つまり運命も応援してくれたのだと思います。こちらは地の文なので、「もっと恐ろしく大きいもの」とは違うものだと受け取りました。全世界のすべてがメロスを応援しているぐらいのすごい力。間に合って間に合ってと私も応援しながら読みました。

    そして、そのあとのたった5文字。「間に合った」。とても重く感じました。本当に良かったです。

    • 山川 信一 より:

      ここはなぜ「恐ろしい」のかを考える必要があります。メロスは自分が走る理由が個人の思いを遥かに超えていると感じているからです。
      それは、たとえば「自分が信じている友がぎりぎりの瞬間まで自分を信じてくれている。うれしい。だから走る。というシンプルな気持ち」ではありません。これならば、「恐ろしい」とは感じないでしょう。

      「そうして夢中で走っているメロスを、「わけのわからぬ大きな力」つまり運命も応援してくれたのだと思います。」と思うのはなぜですか?その根拠を上げましょう。
      「こちらは地の文なので、「もっと恐ろしく大きいもの」とは違うものだと受け取りました。」その違いは何でしょうか?

  3. なつはよる より:

    ここは、最も大切な場面として授業中に長々と扱われる部分ですが、「全力で走っているときに、横から話しかけられて、人間はそんなに複雑なことを考えられるはずがあるだろうか?」 とずっと思っていました。自分の力以上の力をだして走っている最中に、何かものを考えたり、声を出して人と話したりすることは、自分の実感としてはあり得ないと感じます。

    メロスは口から血が出るほど走っていたという描写があります。私はそこまで走ったことはありません。そこまでは頑張れません。それでも、自分の範囲で一生懸命走る感覚を思い浮かべてみると、本当に集中しているときは、ものを考える余裕はなく、何も考えていません。何かを考えて走った時は、結果としてあまり速くない、少なくとも、本来の自分の力を超えて走れるようなことはないと思います。

    でも、作者としては、メロスが何のために走るのかは、地の文ではなくて、ぜひとも主人公に話させたかったのだろうか? フィロストラトスもメロスに話をさせるために登場させたのだろうか?と感じました。

    やっぱり変ですか? 国語の勉強として正解になる答えは、なんとなくリアリティーがないと感じてしまいます。

    最初の方を読んでいた時、先生はこの距離はマラソン程度だと教えてくださいました。私は気がつきませんでした。ラストスパートは、メロスを心から応援しながら読んでしまいました。先生からご覧になると、メロスの走りは、全然だめですか?

    • 山川 信一 より:

      「全力で走っているときに、横から話しかけられて、人間はそんなに複雑なことを考えられるはずがあるだろうか?」同感です。授業でこの時のメロスの気持ちを考えさせるのは、間違っています。
      「メロスは口から血が出るほど走っていたという描写があります。私はそこまで走ったことはありません。」私もありません。でも、「本当に集中しているときは、ものを考える余裕はなく、何も考えていません。」に賛成です。その経験はあります。
      「でも、作者としては、メロスが何のために走るのかは、地の文ではなくて、ぜひとも主人公に話させたかったのだろうか? フィロストラトスもメロスに話をさせるために登場させたのだろうか?と感じました。」にも賛成です。
      「国語の勉強として正解になる答えは、なんとなくリアリティーがないと感じてしまいます。」同感です。道徳の授業にも言えますが、「おやくそく」が多すぎます。
      マラソンは、今では2時間程度で走ってしまいます。しかし、それは舗装道路を最新のシューズで走るからです。山道をそれも裸足だ走るのとは訳が違います。一流のマラソンランナーでもメロスのようには走れないでしょう。メロスの走りは立派です。

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