不幸が起こった

 すぐに僕は、このちょうをもっていることはできない、もっていてはならない、元に返して、できるなら、何事もなかったようにしておかなければならない、と悟った。そこで、人に出くわして見つかりはしないかということを極度に恐れながらも、急いで引き返し、階段を駆け上がり、一分の後には、またエーミールの部屋の中に立っていた。僕は、ポケットから手を出し、ちょうを机の上に置いた。それをよく見ないうちに、僕はもう、どんな不幸が起こったかということを知った。そして、泣かんばかりだった。クジャクヤママユはつぶれてしまったのだ。前羽が一つと触角が一本、なくなっていた。ちぎれた羽を用心深くポケットから引き出そうとすると、羽はばらばらになっていて、繕うことなんかもう思いもよらなかった。

「「僕」がそこで思ったのは、「何事もなかたちょうに」取り繕うこと。元どおりにしておけば、他人には知られずに済むからね。少しずるい心理だけど、責められないわね。普通なら、そう思うでしょ?」と明美班長がみんなに同意を求めた。
 そうね。それが自然な感情だわ。間違えても結果オーライだって思うもの。
「そこで見つからないかとおびえながら大急ぎでとって返す。「一分の後には」とあるから、ごくわずかな時間の出来事だったんだね。でも、きっと長く感じられたろうな。」と若葉先輩が感情を込めて言った。何かを思い出したみたいに。
 そうだね、時間は同じ速さでは流れていないよね。
「ポケットからちょうを取りだして、不幸を悟るのね。ちょうがバラバラになってしまったから。不幸って捉えたところが「僕」らしいわね。そのことの意味の重さが伝わってくるわ。」と明美班長が鋭い指摘をした。
 確かに、不幸というのは人生に関わる大きさが感じられる。このことは「僕」を不幸にしたんだ。
 この場面は、とてもリアルの描写されているので、様子が目に浮かぶ。そのこともあってか、矢継ぎ早に意見が出る。
「ちょうはまだ乾いていなかったし、もともと繊細なものだしね。」
「ポペットに入れた手に思わず力が入ったんだろうね。」
「そもそも、ポケットに入れるという行為そのものがちょうの扱い方として手荒いよ。」
「隠そうという思いがちょうへの気遣いを上回ってしまったんだ。」
「前羽と触角が無くなるって大変なことだね。しかも、羽はちぎれてしまっている。書いてないけど、触角はポケットの隅にでも粉々になっているんだろうね。」
「取り返しのつかないことってこういうことですね。」
「昔、大切にしていた鏡を割ってしまったことがあるけど、そんな感じかな?」と真登香先輩が問い掛けた。
「う~ん、少し似ているけれど、人工物と自然物の違いがあるんじゃないかしら。鏡は同じものが無い訳じゃない。人間が作れるものだし。でも、ちょうはそうじゃないわ。」と明美班長が答えた。この答えで、みんな納得したようだ。
「取り返しのつかなさが度合いが違うということね。」
「一度しでかしてしまったことは、二度と元どおりにはならないってことなんだ。」
 自分がしたことが最悪の結果をもたらしてしまう。そのことに呆然としている様子が手に取るようにわかった。胸がドキドキしてしまった。

コメント

  1. すいわ より:

    「不幸が起こった」、、不幸を起こしたのですね、自らの手で。「せめて、、」の回で『毛の生えた赤茶色の触角や、優雅で、果てしなく微妙な色をした羽の縁や、下羽の内側の縁にある細い羊毛のような毛などを、、』と、こんなにも微に入り細に入り眺め、それがどんなに繊細で壊れやすく、変えがたいものであるか「僕」が一番わかっていたでしょうに。魔が刺した、と言いますが、いつもの「僕」であれば断じてそんな扱いはしない。もし、玄関を入った時、誰か居たなら、四階へ上がった時、エーミールが部屋にいたのなら、、でもその「もし」は起こらなかった。時は戻せない、大切な蝶の美しい姿も損なわれ、そして、ただひたすらに無心に蝶を追っていた「僕」にも、もはや戻る事が出来ない。それが最大の不幸のようにも思えます。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。「僕」がその事態がいかに不幸なのかを知っています。もう以前のちょうにも自分にも戻れません。それを不幸と言っているのですね。

  2. らん より:

    ポケットに入れてしまったところで、あ〜あって思いました。
    ドキドキしながら読みました。
    私もその場面にいるような気持ちになりました。
    すごい臨場感ですね。
    ヘッセってすごいなあ。

    • 山川 信一 より:

      優れた作家は言葉の力を最大限に引き出します。
      それは翻訳されても失われません。

タイトルとURLをコピーしました