憧れのクジャクヤママユ

 二年たって、僕たちは、もう大きな少年になっていたが、僕の熱情はまだ絶頂にあった。そのころ、あのエーミールがクジャクヤママユをさなぎからかえしたといううわさが広まった。今、僕の知人の一人が百万マルクを受けついだとか、歴史家リビウスのなくなった本が発見されたとかいうことを聞いたとしても、そのときほど、僕は興奮しないだろう。僕たちの仲間でクジャクヤママユをとらえた者はまだなかった。僕は、自分のもっていた古いちょうの本の挿絵で見たことがあるだけだった。名前を知っていながら自分の箱にまだないちょうの中で、クジャクヤママユほど僕が熱烈に欲しがっていたものはなかった。幾度となく、僕は、本の中のその挿絵を眺めた。一人の友達は、僕にこう語った。「とび色のこのちょうが、木の幹や岩に止まっているところを、鳥やほかの敵が攻撃しようとすると、ちょうは、たたんでいる黒みがかった前羽を広げ、美しい後ろ羽を見せるだけだが、その大きな光る斑点は、非常に不思議な思いがけぬ外観を呈するので、鳥は恐れをなして、手出しをやめてしまう。」と。

 明美班長がメールを読み上げた。
「部活の始めに橿村凛コーチからのコメントを紹介するね。「前回の場面は、まるで「僕」が悪意の蜘蛛の巣の罠に掛かった蝶のように思えます。それは、ヘッセはここをそのイメージで書いていたのでしょう。」さすがコーチ。読みが鋭いね。」
「先生の息子」という蜘蛛に捉えられた「僕」という蝶。ホントそんな感じがする!
「じゃあ、始めるね。「二年たって、僕たちは、もう大きな少年になっていた」とあるから、二人は十二歳ぐらいになっていた。ちょうの収集はまだ続いていた。「僕たち」ってあるから、二人に何かあることが暗示されているわ。」明美班長が話を切り替えた。
「エーミールという固有名詞が初めて出てくるけど、なんだ最初から出さなかったのかしら?」とあたしが質問した。
「初めはこの少年の紹介だよ。「先生の息子」としての説明がしたんだ。まずその性格を明らかにしたんだね。」とすぐに若葉先輩が答えた。
「クジャクヤママユをさなぎからかえした、さすがエーミールってところね。でも、噂の出所はどこかな?」と真登香先輩が言う。
「もちろん、エーミール自身に決まってるじゃない。要するに、自慢したいのよ。」若葉先輩が即座に答える。なるほど、そうだね、この子ならやりかねない。
「僕がどれほど興奮したのかがたとえられているわ。「今、僕の知人の一人が百万マルクを受けついだとか、歴史家リビウスのなくなった本が発見されたとかいうことを聞いたとしても、そのときほど、僕は興奮しないだろう。」このたとえが意味するのは何だろう?」と明美班長がみんなを見回しながら言った。
「金銭的価値と学問的価値だね。「僕」がこういった大人の価値と無縁に生きていたと言うことを意味している。」と若葉先輩が答えた。さすがに鋭いなあ。大人の価値観か・・・。
「要するに、子どもだったということだね。」
「本の挿絵と友だちの話でクジャクヤママユへの憧れがいやが上にも高まったんだよ。」
「友達の話は、クジャクヤママユの魅力をよく捕らえているわね。この子も捕まえたかったんだわ。同じ趣味を持つ者同士が話していると、段々興奮していくことってあるわよね。ほら、アイドルのファンクラブの心理に似ていない?」と明美班長。
「エーミールがこのさなぎをかえしたのは、ちょう集めの仲間で誰も捕らえたことがなったのを知っていたからだよ。エーミールには捕らえるだけの行動力も情熱もないけれど、たまたまさなぎを手に入れたんだ。これをかえせば、みんなに自慢できるからね。」と若葉先輩が興奮気味に言う。そうだわ。エーミールの心理を言い当てている。
「エーミールってそういうヤツだね。優越感に浸りたいんだ。クジャクヤママユはその道具に過ぎないんだよ。」と真登香先輩が賛成意見を述べた。
 エーミールはちょう集めをしているけれだ、それが好きだからじゃない。流行っているからしているに過ぎない。ただ仲間の中で目立つ存在でいたいのだ。エーミールの行動を支えているのは、優越感なんだ。嫌なヤツだ。

コメント

  1. すいわ より:

    なるほど、エーミールはサナギを取って来てかえしたのではなく、サナギからかえした、のですね。男の子たちの流行アイテムの最高峰を一番効率の良いやり方で手にして羨望の眼差しを浴びて愉悦に浸る。野山の隅々まで探し歩いて結果ゼロの「僕」たち。かたやおそらく大人ルートで財力にもの言わせて手に入れたであろう世話もいらないサナギをかえして宝物を手にしたエーミール。野山を結果として知り尽くしている、という価値に当人たちの誰も気付いていないのは残念です。派手な物に目が行くのは世の常。
    それから、部員の方々が仰るとおり、「先生の息子」から突然固有名詞の名が出された事が不思議でした。「エーミールという名の先生の息子」と最初に書いてしまっても良かった訳ですから。大人に飼い慣らされた子供は1人きり、に作者がしたかったからかしら、とも思いました。読み手が自分を登場人物の誰かに投影して見る時、名前が無い方が自らに引き寄せやすい、固有の名を持った人物にはその逆。一人としてエーミールみたいな子供を作り上げたく無い作者の意思のようなものも感じたように思いました。

    • 山川 信一 より:

      エーミールはさなぎも自分で探したのではないのでしょうね。野山を駆けまわることになど、価値を置いていませんから。
      エーミールという固有名詞がここで出て来たのは、「先生の息子」としてのキャラクターの紹介が済んだからでしょう。ここからは改めて具体的な場面でのやり取りになります。その場合、固有名詞が必要になります。

  2. なつはよる より:

    中一の時はおそらく読み飛ばしていたのですが、今読んでみますと、3行目から5行目の「今、僕の知人の一人が・・・聞いたとしても」の部分に大変な違和感があります。ここで突然に、もう大人になってしまった現在の「友人」が顔を出しています。夢中でチョウを追いかけていた子どもの「僕」なら、このような比較は思いつきもしないはずです。「友人」が今では、かつてあんなに純粋な情熱を持っていたチョウの話のときにも、まずは「金銭的価値」と「学問的価値」を考えるような大人に変わってしまったことが伝わってきます。

    ドイツ語や他のヨーロッパの言葉は、動詞の活用ではっきりと時制を示すことができるので、こういう風に一文だけ時間を移したりしやすいのだろうかと思います。そして、読む側の人も、あまり混乱せずに、それに気がつけるのだろうかと思います。

    • 山川 信一 より:

      そうですね。この場面は、語り手が大人であることを思い出させてくれますね。子どもの「僕」なら、こんな発想はしませんでした。「今」から振りかえって意味づけています。
      ただ、この描写を以て「僕」が「まずは「金銭的価値」と「学問的価値」を考えるような大人に変わってしまった」こと、つまり、純粋ではなくなったことを伝えているとは思えません。
      むしろ、これはヘッセによる、この小説のテーマへのヒントではないでしょうか?恐らく、ドイツ人の読者にとっても、容易な小説ではないのでしょう。

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