センス・オブ・ワンダー

 昆虫少年だったかつての私にとって、センス・オブ・ワンダーは、まぎれもなくルリボシカミキリという小さなカミキリムシの青さだった。この青にはビロウドのように細かくさざ波がある。そして鉱物を思わせる輝きがあり、海に似た深度がある。あのフェルメールにだって決して描けない青。こんな青がなぜこの世界に存在するのだろう。そう私は思った。
 ある夏の終わり、とうとう私は図鑑で憧れ続けていたほんもののルリボシカミキリを捕らえた。一度、通り過ぎた朽ち木の上に、何か光るものがあったのだ。それを私は目の隅に捉えた。ゆっくり振り返ると、そこにルリボシカミキリがじっととまっていた。奇跡のような瞬間だった。
 私は、そのルリボシカミキリを捕らえ、大切に持ち帰り、殺し、完全な標本を作った。いくら見ても見飽きることがなかった。その青は全身はもちろん、長い触角の細部にまで行き渡っている。私はルリボシカミキリの青にずっと憧れ、ルリボシカミキリの青をとうとう手にした。いったい、私は虫を捕らえて何がしたかったのだろう。
 そのとき私はまだ言葉を持ちえなかったけれど、今になってみると言うことができる。自然の精妙さに目をみはること。その美しさに打たれること。それはとりもなおさず、この世界が、私の思考を超えたところに実在していることを確認する感覚である。そして、センス・オブ・ワンダーとは実はそういうことなのだ。
 デカルトは、我思う、ゆえに我在り(コギト・エルゴ・スム)と言ったと伝えられる。自分の存在を立証することは不可能である。しかし自分が考えるそのことだけは否定できない。だから私は存在しているのだと。
 しかし、むしろ私はこう言いたい。センス・オブ・ワンダーを持ちうることが、この世界のありようをさし示すのだと。自然の細部に宿る美しさに目をみはれることが、世界の実在性を立証している。つまり、センス・エルゴ・スムであると。


「なるほど、福岡さんの話は、「僕」の話に似ていますね。」と明美先輩。あたしにはどこが似ているのか、今一つピンとこない。
「センス・オブ・ワンダーかあ!わたしにもあるかなあ?」と若葉先輩。
「少なくとも、虫にはないね。」と真登香先輩が言う。
「その思いが科学に発展することもあります。詩と科学は、こんな所で繋がっているのですね。でも、近頃は分析などしないで、自然をまるごと捉える、そんな経験がしにくくなりました。役に立つとか立たないとか、自然を人間の都合で判断します。そのために本質を見失います。では、現代人は何を知っているのかな?知識や言葉を知っていても、それらはどこかで経験と結びついています。たとえば、トンボという名前は知っていても、それをセンス・オブ・ワンダーで捉えたことはない。トンボだけじゃない、世界のありとあらゆるものにそれを持ったことがない。ただ名前だけ知っている。私たちはこういう知識ばかり持っています。しかし、物事を知るというのはそういうことではありません。」
「これじゃあ、詩人も科学者も生まれにくいですね。」と明美先輩が深刻な顔をして言った。
 すると、この小説は、そういった現代批判みたいなものが根底にあるんだ。この少年は私たちにはないセンス・オブ・ワンダーを持っていたんだね。「自然の細部に宿る美しさに目をみはれる」ってどうしたらできるようになるんだろう。
 言うだけ言って、先生はいつの間にかいなくなっていた。

コメント

  1. すいわ より:

    日本人っ自然と向き合って、折り合いつけて畏れをもって付き合う事、上手だった筈なのですけれど。『「自然の細部に宿る美しさに目をみはれる」ってどうしたらできるようになるんだろう。』の言葉が寂しいです。
    先入観なく、物事に相対する事の出来る子供時代というのは本当に貴重な時間なのですね。知識を得るという喜びにも勿論価値がありますが、その知識自体に誰かの意思なりを挟む事によってその本人が本当に感じるはずの感覚を知らずのうちに歪められて知覚する事もありますね。例えば親が蝶を指差して「気持ち悪い」と言ったら、子供は蝶は「気持ち悪いもの」に類別してしまうし、その漠然とした認知のベールに全体を隠される事で本来持っている特性の様々な様相が見えなくなる。知らない自分には戻れない、「本当に知らない」のかも気付かないまま。絶対的経験値の薄さがその不自然な現況を成立させてしまっているのでしょう。その怖さを放置して良いはずもなく、、情報過多の現代、北都先生の仰りたかったのはそういう事なのかしら、と思いました。

    • 山川 信一 より:

      子どもが使うノートに「ジャポニカ学習帳」というものがあります。その表紙は、以前は昆虫と決まっていました。それがいつしか、昆虫ではなくなりました。
      先生が気持ちが悪いと思うようになってしまったからです。先生自身がそう育てられたからです。「自然の細部に宿る美しさに目をみはれる」ようになるには、まず教師が変わらなくてはなりません。

  2. なつはよる より:

    ジャポニカのノートを使っていたのは覚えていますが、表紙のことはなぜか全く記憶にありません。今ホームページを見に行ったら、どの科目もみんなお花なのですね。でも、楽天とアマゾンに「復刻版5冊セット」というのがあって、とても美しい蝶やカブトムシが載っていました。これが気持ち悪いなんて、信じられません!!!

    今年はちょっと特殊な状況にあって、家にいることが多くなり、自然に触れ合うチャンスが減っていると感じます。それでも、いつもと同じ時期にセミが鳴きだしたのを、とてもうれしく思っていました。ところが、新聞には、「セミがうるさくて勉強に集中できない」という中学生のコメントが…。

    どの作品の時だか忘れてしまいましたが、ランナーが出てきたときに、先生が、「実際に走っている人の気持ちは違います。」とおっしゃったことが、とても印象に残っています。自分の体験していないことを一生懸命想像だけで書こうとしても、実際に経験している人にはすぐに見破られてしまうのだなあと思いました。

    ヘッセは自分自身がセンス・オブ・ワンダーをもって昆虫採集していた人だったから、このような描写ができたのだろうと思います。現代人が、昆虫嫌いになってしまって、その気持ちを経験することがなくなってしまったら、共感できる部分が減ってしまうかもしれないと心配に思います。

    • 山川 信一 より:

      ヘッセのこの作品は真実を捉え得ています。しかし、これを今の子どもは理解できないでしょう。それも、中一には無理です。ここには二つの問題があります。
      一つは、今の教育システムは、センス・オブ・ワンダーを持つ子を育てていないからです。今の教育システムは、更に大きな社会的システムの中に組み込まれています。
      つまり、この格差社会を作るシステムの中にです。そこでは、センス・オブ・ワンダーなど持たない方が、虫など毛嫌いした方が都合が良いのです。
      これに対抗するのは、容易なことではありません。しかし、私はそれをライフワークにしています。
      もう一つは、こんなに難しい教材を中一に置いて済ましている国語教育の現状です。この作品は、大人に向かって書いたものです。主人公が子どもだからといって、わかりやすい訳ではありません。
      そこには何の問題意識がありません。したがって、これほど素晴らしい作品を碌でもない解釈をしています。宝の持ち腐れもいいところです。
      これを中一にまともに教えられる教師がどれくらいいるでしょうか?

  3. なつはよる より:

    先生、ありがとうございます。中一の時の先生にどんな風にお習いしたのか、ほとんど覚えていませんが、大学生になっても、「エーミールって子が出てきたの、なんだっけ?」などと友人との会話に登場したこともあり、みんなにとっても印象的な作品だったと思います。だからこそ、深い読みができないまま通り過ぎてしまったことは、残念です。
    今ここでたくさんのことに気がつかせていただいて、当時はわからなかったところまで学ばせていただけて、とてもうれしいです。舞姫までなかなか追い付いていけず、申し訳ありません。またこの作品で質問させていただくかもしれませんが、どうかよろしくお願いいたします。

    • 山川 信一 より:

      お役に立てて幸いです。どうぞマイペースで学んでください。まず中一からおさらいですね。納得できるまで考え抜いてください。
      質問があれば何でもしてください。一緒に考えましょう。

  4. なつはよる より:

    先生、たびたび申し訳ありません。昨日(2020年9月3日)の朝日新聞夕刊の1面に、「ジャポニカ学習帳」が大きく取り上げられました。新しい昆虫ノート発売だそうです! 先生のおかげでとても興味深く読めました。ありがとうございます。

    • 山川 信一 より:

      そうでしたか。最近朝日新聞を止めてしまったので、知りませんでした。きっと心ある人の要請に応えたのでしょう。
      『土佐日記』を読み始めました。是非参加してください。

    • すいわ より:

      ジャポニカ学習帳、話題になっていましたね。発売50周年の記念で昆虫シリーズ限定復活、評判が良かったら継続もあるかも、との事でした。
      なつはよるさん、(らんさんも)一緒に学べて嬉しいです。皆さん素晴らしい先生の元で学んで来られたのですね。

  5. なつはよる より:

    すいわさん、メッセージありがとうございます。いつもリアルタイムで毎日素晴らしいコメントを書かれていて、とても尊敬しています。どうかこれからもよろしくお願いいたします。まだメロスのあたりを読んでいるのですが、すいわさんとらんさんのコメントの欄まで、とても楽しみにゆっくり読ませていただいています。

    • 山川 信一 より:

      よい教師はよい生徒を育てます。よい生徒はよい教師を育てます。仮にもし私がよい教師ならば、それはこれまで関わってきたよい生徒のお陰です。
      すいわさんも、らんさんもそのお一人です。なつはよるさんも!いけない生徒とは、授業を傍観する生徒です。でもいつだって、いい生徒になっていい教師を育てることができます。
      なつはよるさん、最初から読んでくださってありがとうございます。

  6. らん より:

    先生、すいわさん、なつはよるさん。
    私はなかなか深く読むことができませんが、どうかこれからもよろしくお願いします。

    • 山川 信一 より:

      深く読もうとなんてしなくていいんです。自分の感覚を信じて、素直に読んでください。
      これからも一緒に勉強していきましょう。

    • すいわ より:

      らんさん、なつはよるさんの真っ直ぐなコメントが載ると、あぁ、こんな風な感じ方が出来るのだなぁといつも楽しみにしています。クラスルームで実際に一緒に授業を受けている気持ちになれて嬉しいです!こちらこそ、どうぞ宜しくお願い致します。

      • 山川 信一 より:

        コメントは私に私の不備を教えてくれます。いつもありがたく思っています。いい教師を育てるのは生徒です。
        いい教師はいい生徒を育てます。この循環を大切にしたいですね。なぜか、学校ではそれを教えません。

  7. なつはよる より:

    らんさん、メッセージありがとうございます。返信遅くなって申し訳ありません。初めて直接お話ができて大変うれしいです。らんさんは、毎日リアルタイムで感性がキラキラと光っているようなコメントをされているので、とても尊敬しています。どうかこれからもよろしくお願いいたします!

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